福澤諭吉(1835-1901)『學問のすゝめ』(1872-1876)について 20111111

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『学問のすゝめ』の要点について

>> 福沢諭吉 (著)、檜谷昭彦 (翻訳)/『現代語訳 学問のすすめ』/三笠書房、2010
<編集文ここから>

初編(1872年2月)

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言われる。
けれども、広く人間社会を見渡すと、人間の暮らしには雲泥の差がある。
なぜだろうか。

理由は明白である。
それは、賢人となるか愚人となるかは、学ぶか学ばないかによって決まるからだ。

学問とは、世間で役に立たない学問だけを指しているのではない。
役に立たず、現実的ではない学問は二の次にして、まずやるべきことは、日常の生活と事業(仕事)に必要な実用の学問(実学)である。

実学を身につけ、金を稼げるようになれば、自分自身を独立させることができる。
自己の独立により家が独立し、国家が独立する。

学問をするにあたって最も重要なことは、分限を知ることである。
分限とは、天の道理に従い、人の道に従い、他人に迷惑をかけず、自己の自由を守ることである。

自由とわがままの違いは、他人に迷惑をかけないかどうかにある。

王政復古以来、日本の政治は一変した。
だからこれからは、その人の才徳(人格と才能)と立場によって、人間の地位が決まるのだ。

国民ひとりひとりが学問を通じて人格と才能を磨き、政府の国家運営をしやすくし、かつ国民を圧政で苦しめないよう、お互いが意識を高める。
そして国家の平和(太平)を護る。
私が勧める学問は、まさにこの一点を目指しているのである。

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二編(1873年11月)

長年の苦労と多額のお金をかけて学問を身につけても自分の独立した生活さえ立てられない者は、無用の長物である。

一国の圧政の原因は、暴君や権力者のせいだけではない。
大衆の無智が自ら招いた禍(わざわい)でもある。
愚民を扱うには、専制的な圧政を行う以外にない。

よって、もし、大衆がそんな圧政(暴政)から逃れたいと思うのであれば、今すぐにでも学問に志し、才徳(人格と才能)を磨き、政府と対等の立場に立つだけの能力を持たねばならない。
これが、私が勧める学問の目的である。

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三編(1873年12月)

大衆に独立しようとする精神(気力)がなければ、国家独立の権義(権利と義務)を広めることなどできない。

理由1:独立の精神がない国民は、国を愛する心も浅くいいかげんである。

大衆がお上の命令にただひたすら従えば、一見、国内は平穏になる。
大衆は国家や政治のことを考える必要はなくなる。
だがそうなると、治める者と大衆は、主人と寄食者(the parasites)の関係になる。

では、他国と戦争になったらどうなるか。
お上に従順なだけの大衆では、命をかけて国家を守ることなどできないだろう。

人を支配できるだけの才徳(才能と人徳)がある者など、ごくわずかである。
よって、国を守る気概を持つ者もごくわずかとなる。
これでは、国家の独立など到底実現できない。

理由2:自分自身の内に独立した気概を持てぬ者は、世間で外国人と接しても、自己の権利を押し通すことなどできない。

理由3:独立の気力なき者は、他の権力に頼って、悪に走ることがある。

日本人として国を愛する心があれば、自己の独立を考え、他人の独立を援助すべきである。

全ての大衆が共に独立し、国を守らねばならない。

国民を束縛し、政治家が自分だけで国事に苦しむことよりも、国民に自由を与え、全ての国民と苦楽を共にするにするほうが優れた国家である。

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四編(1874年1月)

政府が政治に携わるのは当然の務めだが、民間の事業には、政府が関与できない部分も多くある。

政府は、多くの智者が集まって、ひとつの愚行をするところと言える。
それは、日本人の気風(役人根性、事なかれ主義)に押され、個性を発揮することができないからだ。

この人心に染みこんだ気風を一掃するには、民間で事業を興し、大衆が頼ることのできる、目標たるべき人物が必要である。

我々、洋学者の仲間にも、昔の漢学者と同じで、官庁勤めが最高の出世だと思い、それを人生の目的にしている者がいる。

それに対して我々(慶應義塾)は、自ら事業をひらき、大衆の先頭に立ち、洋学者のさきがけとして、日本の展望を示さねばならない。
それを詳しく説明するには、まず、自ら実例を示すのが一番である。

学者は民間で研究し、町人は私(わたくし)に商業をおこすべし。

こうしてはじめて、日本固有の卑屈な気風も消え、真の国民(大衆ではなく)が生まれるであろう。
国民は政府を刺激する力となり、学術、経済、法律も整備され、民力と権力が均衡をとり、国家の独立が維持できるはずである。

もし、同じ労働で公務のほうが割が良いというのなら、それは不当な国費の乱用である。
無能な役人の公金横領まがいは、我ら義塾の友ではない。

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五編(1874年1月)

我が国の大衆に気力がない原因は、古代より、全国の権力を政府が一手に握り、どんなに些細なことにまでお上が関与してきたからだ。
まるで国は政府の私物であり、大衆は国の居候(いそうろう)のようであった。

大衆がこのままでは、たとえ政府が文明開化させようとも、大衆はますます気力をなくし、文明の精神は衰退するばかりであろう。

文明は、政府から生まれるものでもなければ、大衆から生まれるものでもない。
大衆に向かうべき方向を指し示し、政府と対等の立場になれる中流階級(the middle class)によってこそ、文明を興隆させることができる。
文明を興すのは民間人であり、それを保護するのが政府なのである。

現在の日本で、中流階級の地位にあり、文明化を主張し国の独立を支えられる者は、ただ独り、知識人のみである。

我が慶應義塾は、創立以来、独立の誇りを失わず、私立の塾として独立の精神を養ってきた。
その目的とするところは、全国の人心の独立を支えようという一点にある。

人間の勇気は、読書からのみ得られるものではない。
読書は、学問の手段である。
学問は、実践への方法である。

実地に臨み、経験を積んでこそ、勇気と力が生まれるはずである。

我が慶應義塾ですでに学術を得た者は、貧苦に耐え、困難をものともせず、得た知識を文明化に注ぐことが必要だ。

その志は、学問の分野を問わない。
商業もしかり、法律も議論し、工業の振興、農業の奨励、著作、翻訳、新聞の発行、文明に関する事柄すべて自分の役割と考え、国民の先頭に立って政府に協力すべきである。

官の力と民間の力とが均衡するとき、一国の国力は増大し、国家独立の確かな基礎が固まり、外国と対等につき合うことができるのである。

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六編(1874年2月)

政府は国民の代理で、国民の思うところに従い、事を行うものである。
その務めは、罪ある者を捕らえ、罪なき者を保護することにある。

たとえ、国民ひとりひとりが自分の力で犯罪者に対する防犯ができたとしても、それには莫大な防犯費用が必要となる。
そこで国民の代表として政府に保護を依頼し、その代わりに役人の給料はもちろん、政府の諸費用をすべて税金で賄おうと約束したのである。

また政府は、国民の総代理人として事にあたる権利を持ったのだから、政府が行うことは即(そく)国民のためであり、したがって国民は、その政府の法律に従わねばならないのである。

つまり、国民が政府に従うというのは、政府が作った法に従うのではなく、自分で作った法に従うのである。

確かに、お上が作る法律はあまりに煩わしく、現実にそぐわない点もある。
だから役人に賄賂を渡し、罪を犯し、それを隠蔽するようなことも起こるのだろうが、一国の政治的見地からすれば、やはりこれは恐るべき悪の習慣である。

よって、政府は立法にあたり、法はできるだけ簡単なものにするのがよい。
しかし、一度施行した法律は、厳格に運用すべきである。

一方、国民は、その法律がどうにも不便だと思えば、遠慮せずにこれを論じ、訴えるべきである。

ただし、すでにその法が施行されている間は、その法を守るのが義務であろう。

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七編(1874年3月)

大衆は法を重視し、同時に人はみな平等であるという精神を忘れてはならない。
他人が自分の権利を侵さぬ以上は、自分も他人の権利を妨げてはならない。

国の法律に不正、不便があれば、これを政府に説きすすめ、静かに、かつ力を尽くして法を改正させるべきである。
政府が従わない時は、実力をため、耐え、時の来るのを待つべきである。

政府は大衆の代理人として、その公約に従い、国民に対し一切の差別なく、国民の権利をたくましく伸ばさねばならない。

つまり、法は厳正にしなければならないし、私的な不正は少しでもあってはならないのである。

そこで我々大衆は、普段から政府に心を向け、その政府の動静を見て、おかしいと思うことは誠実に語り、恐れず告発すべきである。

大衆は国家の主人でもあるのだから、その費用を払うのに、不平な顔をしてはならない。

時には政府が職権を逸脱して、無謀な暴政に走ることもある。

このとき大衆がとる行為は3つある。
1.自分の主義を曲げて政府に従う。
2.力で政府に反抗する。
3.暴政や苛酷な法律に耐え、主張を貫き、正しい道理を政府に訴える。

私は、3が上策だと考える。

理論で政府に迫れば、そのときの国法のうち、良い法律や優れた政策は害を受けることがない。
力で破壊されることがない。

理論で説けば、今年だめでも来年は理解されるだろう。

このように世を憂えて我が身を思わず、命を捨てて大衆の犠牲となる者のことを、西洋では殉教(martyrdom)という。

文明とは、人間の知識と道徳、つまり教養と道徳(morality)を高め、人間がそれぞれ独立した、一個の人格を所有し、社会に交わり、他を侵すことなく、他からも害されず、各人が自己の権利を確立し、社会の安定と繁栄をもたらすことをいう。

殉教における死の意義の軽重は、世の文明に真に役立つかどうかによって決められる。

私が知るところでは、佐倉惣五郎こそが殉教者だと考える。
藩の暴政を将軍に直訴し、家族もろとも死刑になったが、領内の大衆を貧窮から救った行動が殉教に相当する。

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八編(1874年4月)

Francis Wayland (1796-1865) は、”The Elements of Moral Science” (1835)(修身論)において、人間は他者から独立した肉体を持ち、その身と心を律し、自らのなすべき仕事に励むべきだという。

それを5つに分けると、身体、智恵、欲求、誠実さ、意思となる。
この5つの力を発揮することにおいて、天が定めた法に従い、自分の分限を越えないことが大切な生き方だ。

その分限とは、お互いに相手の努力を妨害しないことである。
これこそが人間の権利と義務である。

このようにして、人たるものは、他人の権利を妨げさえしなければ自由に行動すべきで、端からあれこれ口を出されるいわれはない。
好きなところへ行き、居たい所に留まり、遊ぼうと働こうと、学ぼうと寝ていようと、それは本人の勝手なのである。

これに対して和漢の学者らは、上下・貴賤の身分ばかりを、数千年の昔からやかましく論じてきた。
結局、これは、権力者が大衆の権利を制限し支配するたくらみだったに違いない。

男も女も同じ人間である。
にもかかわらず、男女差別に基づいた教えが世間にははびこっている。

生まれる男女の数はほぼ同じなのだから、1人の男が2、3人の妾(めかけ)をもつのもおかしい。
結婚して子供ができないからといって、それが罪になる(親不孝になる)ことなどない。

親に孝行し、老人を丁寧に扱うことは、人として自然なことだ。

しかし昔から、「考」という思想を説く説話には、理屈にあわない、現実離れしたものが多い。
つまりこの教えも、親と子の上下の身分を定め、むりやり子の立場の弱さを強調したものである。

この夫婦、親子のゆがんだ関係をめぐる弊害はまことに多く、様々な形で社会に染みこんでいるのである。

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九編(1874年5月)

人間の心身の活動は2つに分けられる。
1.自立した個人としての活動。
2.人間社会における活動。

もちろん、独立した生活を営むことは、人間として大切なことである。

しかし私は、それだけでは人間としての責務が果たせたとは考えない。

全ての人類が自分の生活だけに満足していたら、現在までの文明に発展することはなかった。

自分の長所を活かして、それを世の中に役立てたいと思うのは自然なことである。
あるいは、そのような意識がなかったとしても、知らず知らずのうちに子孫がその恩恵を受けることだってある。

先人が我々の残してくれた、有形、無形の遺産(文明)に対する感謝の念を、我々も未来の人々から受けたいものである。

ところで、何か事を行うには、時機というものがある。
機会に恵まれなければ、有能な者もその力を発揮できない。

王政復古以来、我が国は変わり始めている。
戊辰戦争後も、その後遺症は全くない。

つまり、学問に進む絶好の機会は、今をおいてない。
大衆の精神を高い水準に導き、学問の魅力を教えるためには、まず諸君が、なによりも学業に励まねばならないのである。

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十編(1874年6月)

我々は、外国の文物を崇拝し、これを長い間利用し続けるべきではない。
今はこれを一時の供給だと思い、強いて慰めるしかないが、この状態はいずれ終わらせなければならない。

それには、学生諸君が学問を修め、日本国の為に活躍してくれる日を待つしかないのである。

農業にも商業にも従事できるし、学者にも役人にもなることができる。
本を書き、法律を講義し、芸術を研究し、産業を興し、代議士になることも努力次第だ。

しかもこうした活動によって国内に争いが起こるわけではない。
その智恵の優劣を争う相手は外国人である。
この智恵と智恵の戦いに勝てば、日本の地位は高くなるだろう。

もし負ければ、その立場は低くなるだろう。

だから我々の望みの大きさとその目的は明白である。

達成に時間がかかるものも少なくないが、日本国の為に緊急な事業は、国民それぞれの立場で、今すぐに研究しなければならない。
学生たる以上、学問に励むしかないのである。

このように考えれば、今日の学生は、決して、通り一遍の学校教育だけで満足するべきではない。
目標を高く遠くに置き、学術の本質を極め、真の独立の立場を築くべきである。

目標を共にする友がいないなら、自分一人でも日本国を維持する気概を持ち、社会のために尽力せねばならない。

もともと私は、和漢の古学者たちを好まない。
彼らは、人民を支配する方法だけを知り、自分を修養する方法を知らないからである。
だからこそ私は、本書初編から人民同権の思想を主張し、人々が自分の責任と力で生計を営むことの大切さを述べてきた。

だが、自分で自分の生計を立てただけでは、私が言おうとする学問の目的を理解してもらえたとは思えない。

生活と収入はもちろん軽んじるべきではない。

しかし、生活と収入のみを目的とするようになったら、才能ある青年までが能力を発揮できないまま終わってしまう恐れもある。
それは本人のためにも悲しむべきことだし、世の中のためにも悲しむべきことである。

生活が苦しいといっても、大きな目で見れば、少しの金を得て小さな安定を得るよりも、時機を待ち、努力と倹約ののちに大きな成功を収めるほうが、より得するのではなかろうか。

学問を志した以上、大いに学問に励むべきだ。
農業に就くなら豪農に、商業に入るなら大商人になりたまえ。
学生は小さな安定に満足してはならない。

粗衣粗食、寒暑に耐え、米をつき、薪を割りなさい。
学問は米をつきながらでもできるのである。

人間の食べ物は西洋料理だけではない。
麦飯を食らい、味噌汁をすすっていても、西洋文明は学べるのである。

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十一編(1874年7月)

名分(めいぶん)、つまり、人間の地位、身分の上下は、夫婦や親子の関係に様々な弊害を及ぼしている。
名分とは、強い権力を持つ者が弱者を支配するシステムである。

だが、上に立つ者は、いつも悪意だけで弱者を支配しているわけではない。
上に立つ者の基本的な考えは、世の大衆はみな無智であるというものである。
国の政治も、村の支配も、店の経営も、家庭の生活も、すべて目上と目下とが心をひとつにして、親子の関係のように事をすまそうというわけだ。

だが、ここには大きな間違いがひとつある。
それは、親子の関係というのは、知能の成熟した実の親と幼い実の子との間でしか成り立たないということである。
成人した他人同士では成り立たない。

それにもかかわらず、成人した他人同士にも親子関係をあてはめようとすることから、地位、身分の差が生まれる。
目下に対する勝手気ままな専制政治が生まれる原因がある。

だから、地位、身分の差は、人間の悪意から生まれるのではなく、人為的な空想から作り出されたものだと、私は考える。

この空想を現実の世界に当てはめるために、まず君主を徳のある優れた人物と定める。
そして、正しく賢い臣下の者が君主を助ける。
彼らは私利私欲に走らず、まっすぐな心を大衆にも押し広めていく。
こうして目上と目下とが一体となり、大衆は従順、無心に君主に従い、太平の世が実現するというわけだ。

だが、現実をよくよく見てごらんなさい。
他人同士の関係が私的な情愛によって成り立つはずがない。

他人同士の関係というものは、お互いの規則や約束を取り決め、その契約のあれこれを争いながら、なんとなくうまく収まり、お互いに交際していくものである。
国の法律もまた、この考えの上に成り立っているのだ。

徳の高い君主、行い正しい賢臣、従順な国民とは、確かに理想的であろう。
だが、いったいどのような学校に入れたらこのような完璧な聖人賢者を生み出せるというのか。
どのような教育をしたらこのような結構づくめの国民が育つというのか。

中国でも、古く周の時代からこのことに頭を悩ませつづけてきた。
だがこれまでに、理想通りに治まったことがただの一度でもあっただろうか。
結局のところ、今日のように外国人に支配されるはめになったではないか。

理想を求める空想は、大衆にとって逆に迷惑となる。
仁政(思いやりのある政治)は、いつか苛酷な政治にすり替わってしまうからである。

地位身分にともなう権限だけを主張し、自分の一存で事を運ぼうとする風潮が、世の中にはびこっている。
政府だけではなく、商屋、学問の私塾、神社や寺でも、いたるところに見受けられる。

今日の社会に謀(はかりごと)や偽りという流行を招いたのも、これが原因である。
この流行にかかったものを偽君子(ぎくんし)という。

大名の家来が高い位の役職に就くと、決められた給金や役職手当以外に金が入るのはどういうことか。
普請奉行(ふしんぶぎょう)が大工に謝礼金を催促したり、会計担当の役人が出入りの町人から付け届け(謝礼や、依頼、義理などのために、目下から目上の者に金銭や物品を贈ること)を取ることなど、大名家の間では当然のことのようだ。

まれに賄賂の噂ひとつない正直な役人がいると、前代未聞の優れた武士として評判になることがある。
だが実際は金を盗まなかったというだけで、それが褒められたことだろうか。
偽君子の群れに普通の人間が交じるから、特別に目立ったというだけのことなのだ。

なぜこんなにも偽君子が多いのか。
元を正せば、昔の人々が、世の大衆を無智で扱いやすいものと思い込んだ妄想の結果である。
その弊害が、独断的な振る舞いをもたらし、目下に対する圧制を生みだしたのである。

たしかに義士がいないわけではない。
だがその数は少なく、割が合わないのである。
たったこの人数で、はたして日本の国を守るに足るだろうか。

こう考えれば、地位身分など意味をなさないことになる。
だが、この地位身分の差(名分)とは、表向きの空虚な名目のことだ。

重要なのは、職分(地位身分における職務、義務)である。
職務を確実に果たすなら、地位身分があっても差し支えない。

つまり政府は、一国の勘定場を預かる者であり、また国民を統治する職務を持つ。
国民は、一国の出資者であり、国費の支出者としての職務がある。
政治家は、政治、法律を決める職務がある。
軍人は、国家の命に従って戦う職務がある。
同様に、学者にも町人にもそれぞれ決められた職務が必ずあるのである。

にもかかわらず、地位身分の差などないと考え、国民の立場で国法を破ったり、役人が民間産業に介入したりしたら大事(おおごと)である。
軍隊が勝手に政治に口をはさみ戦争を起こしたなら、それこそ国中が大混乱に陥ってしまう。

それは、自主自由の意味をはきちがえた、無政府、無法の暴動というべきだろう。
諸君は、この職分と名分の本質的な意味の違いを誤ってはならない。

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十二編(1874年12月)

演説とは、スピーチ(speech)のことである。
集会の席で自分の意見を述べ、人に聞いてもらうことをいう。
我が国では、昔の説教、坊さんが信者に仏法の尊さを説いた説法などが似たものと考えられる。

西洋ではこの演説が盛んであり、あらゆる集会で誰かが演説をする習慣がある。
その内容は、集会の趣旨、普段から考えている意見、そのときの感想などを聞き手に語り聞かせるのが一般的である。

文章ではさほど意味のないことでも、演説は話しことばで直接伝えるから、その理解が速く、聞き手も感動する。

誌や和歌などは、文章にすると実につまらなくなる。
声に乗せ、朗々と歌ってこそ魅力が生まれ、人に感銘を与えることができるのだ。

つまり、自分の意見を多くの人に伝えるためには、話すスピード、抑揚のつけ方が極めて大切になるのである。

学問は、ただ本を読むだけで事足りるものではない。
学問の本質は、学問を自分がどう活用できるかにかかっている。
現実社会に活用できないような学問をしていては、無学と言われても当然である。

学問の本質は、ただ読書するだけにあるのではなく、精神の働きにあるのである。

そして、その精神の働きを活き活きと現実生活に活用するには、様々な工夫がなくてはならない。

物事を観察すること(observation)、物事の道理を推測して、自分の考えをつくること(reasoning)だけでは、学問研究の方法として完全ではない。
本も読まねばならないし、著作もしなければならない。
人に意見を述べ、議論(談話)もしなければならない。
ありとあらゆる手段を尽くしてこそ、学問研究をしているといえるのだ。

つまり、観察、推論、読書は知識を蓄積する手段、議論は知識交換の手段、そして著作、演説は知識を広める手段なのである。

議論と演説については、どうしても相手が必要である。
こうして、演説会が必要となるのである。
自分の内にのみ活動を限定するのではなく、外に向けて発信し、知的交流してこそ真の学者といえるだろう。

また、理論と実生活が矛盾するようでは見識ある人物とはいえない。
「医者の不養生」、「論語よみの論語しらず」という諺にもあるように、人間の見識、品行は、高遠な理論を語ること、見聞を広くすることだけで高潔になるものではない。

ではどうすればよいか。
1.あらゆる素材、現象の長所と短所とをあますところなく検討すること。
2.より高い段階を目指し、決して自己満足しないこと。
これに尽きる。

自分の長所よりも、より優れた長所を持つ人を見れば、自己満足に浸ってはいられないだろう。
だとすれば、ただ勉強していることだけを生涯の仕事とするだけでは、志が低いと言わざるを得ない。

先進的な文化国のインドは、すでに英国の支配下にあり、大衆は奴隷のごとくアヘンの栽培のみに明け暮れ、その毒薬は中国人を殺し、アヘン売買の暴利は英国商人がむさぼっている。

先進的な軍事国のトルコは、自由貿易の名目のもと、商取引の権利は英仏に独占され、いっさいの工業製品は英仏からの輸入に頼り、国家財政は破綻し、かつての勇士たち(勇敢な兵士たち)も貧乏のために活躍すべき場を失っているという。

原因は、大衆の考えが自国の中だけに留まり、その現状に満足し、外国と比較せず、外国の優れたところを見なかったことにある。
同時に大衆が平和に慣れ、内輪げんかを繰り返し、国際的な経済力に負けて、いつのまにか国力をなくしたからである。

この西洋商人の強大さには恐るべきものがあるが、同時に西洋の文明にもまた学ばねばならないものがある。

とすれば、内外の状況の比較検討こそ、我々が最も学ばねばならないことであろう。

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十三編(1874年12月)

この世に悪徳は数多くあるが、人との交際において怨望(えんぼう。うらやみ、ねたむこと)より有害なものはない。

貪吝(どんりん。極端にケチなこと)、奢侈(しゃし。贅沢にふけること)、誹謗(ひぼう。人の悪口を言うこと)なども悪徳の代表だ。

しかし、そうした行為を生み出す欲求自体が悪いのではない。
その欲求を起こす場所柄と、その欲求の強弱の度合いと、その欲求が向かう方向とによって、一概に悪徳とは言えないこともある。

金銭を好むことは自然な内的欲求である。
だが、この欲求を起こすべき場所をわきまえなかったり、度を越したり、方向を見誤ったりすると、道理に外れた金銭欲求となり、貪吝という悪徳と化す。

この境目を越えなければ、節約とか、経済的などと呼ばれ、まさに人が努めるべき美徳となるのである。

奢侈も同様で、財を蓄え、ほどよく散財し、分相応に暮らすことは、むしろ人間の美点といえる。

誹謗も同様で、これは弁駁(べんばく。他人の疑惑を解いて、自ら信じた正義を主張すること)と紙一重である。
世の中の絶対的な正義というものがまだ存在しない以上、ひとつの議論の是非は簡単には判断できない。
他人を誹謗する者をただちに背徳者と断定することはできないのである。

これ以外にも、傲慢と勇敢、粗野と率直、頑迷(がんめい)と実直、軽薄(けいはく)と俊敏、すべて紙一重で悪徳とも美徳ともなる。
もとの素質そのものが悪なのではない。

ただひとつ、怨望こそは、素質そのものが悪であり、どのような場合でも悪徳以外のなにものでもないものである。

怨望は、それが心に起こった時、常に陰にこもった起こり方をする。
自分の身の不幸、不平を満足させるために、他人を不幸におとしいれようと企てるのが怨望である。
だから、怨望を抱く者どもは、世間の幸福を破壊するだけで、世の中になんの寄与もなしえない。

あざむき、だまし、嘘をつくことを欺詐虚言(ぎさきょげん)といい、これは明らかに悪徳であるが、これも怨望から生み出されたものといえる。

よって、怨望は諸悪の根源であり、人間の悪事で、これを原因としていないものはないとさえいえる。

貧困は、怨望(他人の幸せをうらやみ、ねたみ、他人が不幸になることを願うこと)の根本の原因ではない。

いかに貧しい者でも、なぜ自分が貧しく賤しい(いやしい)のかと考え、その原因が自分にあると了解した時は、決してみだりに他人を怨望したりしないものである。

よって、貧富貴賤の差は、怨みの中心でも、不平の源でもないのだ。

怨望は、人間本来の精神活動の自由な発達が妨げられ、幸福も不幸もすべて偶然から起こるような状態のときに、はびこるのである。

人間のもって生まれた心が、男と女とで違うわけがない。
また、「小人」とは身分の賤しい下人ということだろうが、下人から生まれた者が必ず下人になると決まっているわけではない。
人間とは、活動の自由を奪われれば、他人を怨み、うらやむものなのである。

だから、言論は自由でなければならないし、人の行動を妨げてはならない。

現在、識者によって、民選議院設立を求め、出版の自由を求める議論がなされている。
これは、怨望や嫉妬を根絶し、自由な活動によってお互いに競い合う勇気を奮い起こそう。
幸と不幸、名誉と汚名は、個人の努力の当然の結果であるようにしよう。
このような考えが、この議論の背景にある。

言論や行動の自由を妨害することは、政府だけに限ったことではなく、民間にも、学者の間にもはびこるものである。

人生を活き活きと生きる活力は、様々な事物、人物に接しなければ生まれにくい。

そうした交際の中で、自由にものを言い、自由に働き、貧富貴賤も本人自身が選びとった結果であるようにすべきだ。
なにものからも、その自由を妨げてはならないのである。

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十四編(1875年3月)

世の中は常に変化し、その変化は予測できない。
だから、賢人でも意外な失敗をする。
人生には予想外のことがしばしば起こり、計画通りにはいかぬものである。

これを防ぐには、自分の仕事なり学問なりについて、今までにできたこと、できなかったこと、その損得なりを、ときどき差引計算(さしひきけいさん)してみることである。
これは商売でいえば、棚卸しによる損益計算にあたる。

最初から損をするつもりで商売を始める者はいない。
自分の才能と資金を考え、世間の景気を判断して事業を興す。
それでも、情勢の変化によって損をしたり、利益があがったりする。

そこで、商売で最も大切なことは、日々の帳簿を正しく記入し、定期的に在庫高を点検し、商売上の損得をはっきりさせておくことである。

人生もまた同様である。
普段から自分の仕事や学問の記録をきちんとつけ、できるだけ損がないように心がけねばならない。

1.現在、自分はどんな仕事や学問をし、どこまで成功したか。
2.いま、どんな品物を仕入れて、それをどう売り、活用するつもりか。
3.心という店の戸締まりは、きちんとできているか。
4.道楽や、怠け心という使用人のために、経理に穴が開いていないか。
5.来年も同じ経営法で大丈夫か、工夫すべきところはないか。
このように、精神面での帳簿を点検し、全ての面で決算してみることが必要である。

1.明治になって困窮している士族(武士)。
2.和漢の古典ばかりを研究し、西洋の新知識を無視する学者。
3.あせって公務員に就職し、一生のあいだ下級職で終わる学問に未熟な学生。
4.基礎的な知識がないのに高尚な本を読みたがる者。
5.和漢洋の書を読んでも、世界の情勢すらつかめず、あまつさえ自分の家の生活さえ立てられぬ者。
6.政治のことは分かっても、自分の身さえ修まらぬ者。
7.日に流行の新知識を唱え、その実質を考えもせず、自分自身の立場さえ省みない(かえりみない)者。

これらは、時勢の流れに身をまかせ、なりゆきで生きてきた者である。
生まれてからいままで、自分は何をしてきたのか、これからどうすべきなのかを、自己点検しないことから生じた結果なのである。

商売の現状を明らかにし、今後の計画を立てるには、帳簿を点検して、決算したうえでの経理面の反省が大切なのだ。
一身のあり方を明らかにし、将来の方針を立てるには、知識と精神との活動を点検すること(棚卸しすること)が大切なのだ。

ところで、「世話」という語には、「保護」と「命令」の2つの意味がある。

保護とは、人のそばに付き添って、金や物を与え、時間を割いて利益や名誉を守ってやり、面倒をみることをいう。
命令とは、人のために役立つことを指図し、損にならぬように意見し、心を尽くして忠告することをいう。

保護と命令(指図)の両方を備えるのが真の世話であり、これで世の中はうまく治まるはずだ。
保護と指図によって親子の関係も、政府と国民の関係もうまくいくのである。

保護だけに偏ると過保護となり、指図だけに偏ると無慈悲となる。
両方がそろって、ひとつの世話となるのだ。

これは、”give and take”という経済の大原則でもある。
ゆえに、生活するにあたって、いかなる場合でもこれを念頭に置かねばならない。

ところで、人間は気の毒な人を見れば助けたくなるものだ。
これは保護のみの世話で、原則的に経済法則からは成り立たない。
しかし道徳的には賞揚すべきことである。

人生はすべてにおいて、計算ずくな理屈(合理主義)だけで割り切れるものではない。

経済法則の理論だけを振りかざして、人間味のある慈悲の精神を忘れないよう、学生諸君にはつけ加えておく。

●●
十五編(1876年7月)

人間が物事を盲信すれば、嘘、偽りがはびこり、疑うところに真理が生まれる。

世の人々は、他人の言葉、書物、噂を信じる。
俗説や占いを信じる。
熱病に冒されても、医者を呼ばずに念仏を唱えたりする。

それは人々の信仰心のためであり、こうした信仰に正しい真理があるとは、私には思えない。
信仰の世界には、どうしても偽りが多いと、私は考えている。

文明の進歩は、天地の間にある全てのものの働きを研究し、真理を発見することにある。
西洋文明の発達の原因も、全てに疑いを持つという精神から発した。

ガリレオ(Galileo Galilei)も、ニュートン(Isaac Newton)も、ワット(James Watt)も、ガルヴァーニ(Luigi Galvani)も皆、事物に疑問を持ち、そこから真理に達したのである。

自然科学だけではなく、社会科学の進歩も同様である。
ルター(Martin Luther)、クラークソン(Thomas Clarkson)、ミル(John Stuart Mill)など、一学説が出れば新説がそれに反論し、異論多出して論争の絶えることがないのが西洋の実情である。

だが、疑いの心を抱き、異説を唱え、真理を求めるのは、逆風のなかを航海するようなものである。
真理に到達する方法はただひとつ、自説と他説との論争を乗り切ることのみである。

だが、事物を単純に信じるな、とはいっても、疑うばかりでもいけない。
何を信じ、何を疑うか、これを選択する力が必要なのである。
学問とは、この判断力を養うことにあるのだ。

私はいまだ学問も経験も乏しいから、西洋の何を我が国土に取り入れるべきかなどを論じることはできない。
だが、人々は西洋文明を信じ込みすぎているし、日本の伝統や習慣を排斥しすぎているように思う。
西洋文明を無批判に信用するくらいなら、いっそ信じないほうがマシである。

西洋と日本の文明を比較し、信じるに足るものを信じ、疑わしいものに疑問を持ち、どれを取り入れ、何を捨てるか、正しく選ぶことが大切なのである。

この重責を果たす人間は、我が慶應義塾の学生の他にいない。
塾生は多くの書物を読み、冷静に判断して知識を養い、実地に真実を追究すべきである。

昨日信じていたことは、今日大きな疑問となり、明日その疑問は解決するであろう。

だからこそ、学生は学ばねばならないのである。

●●
十六編(1876年8月)

近頃、世間でも「不羈独立」(ふきどくりつ)という言葉が言われるようになったが、その意味を取り違えていることが多い。
だから、ひとりひとりが言葉の意味を正しく理解しなければならない。

独立には、2通りの区別がある。
有形(物)の独立と、無形(精神)の独立である。

物についての独立とは、それぞれが家庭を持ち、家業に励み、他人の世話ややっかいにならないよう、自分や家族の生活を営むことである。
一言で言えば、人から物をもらわないということだ。

だが、形のない精神の独立となると、なかなか理解されにくい。
昨今の世の中では、物質的なことにとらわれて、精神の独立が妨げられる場合が非常に多い。

浮ついた生活の為に心身をすり減らしていれば、たとえ十分な収入があったとしても、残らず使い果たしてしまうことだろう。
その上、不幸にして収入の道を失ってしまえば、もはやふぬけ同然だ。
後に残ったのは役に立たない品ばかり、身についているものといえば贅沢の習慣ばかり、憐れこの上ない話である。

財産づくりにばかり心身に苦労を重ねても、いざその財産を運用する段になると、逆に財産に支配され、独立の精神をなくしてしまうこともある。

私は、守銭奴になれと言っているのではない。
金の使い道を工夫し、金を支配しても金に支配されず、決して精神の独立を失うなと言うのである。

理論と実行は、寸分も食い違うことなく、一致させねばならない。
これらがお互いに補い合い一致することで、利益がもたらされる。

人の理想は、高尚でなければならない。
理想が高尚でなければ、活動もまた高尚にはならないからである。
より高尚な目標を選択をさせるものは、その人自身の意思である。
それは、向上心のある行為といえる。

人の活動は、社会に役立つものでなければならない。
より有用な活動を選択させるものは、その人自身の端かな判断力である。
判断力が確かでないと、せっかくの活動も徒労に終わり、なんら有益な結果をもたらさない。

人の行動は、時と場所をわきまえていなければならない。
時節柄と場所柄をよくわきまえて行動を制御するのも、その人自身の確かな判断力である。

低俗な目標を持つ者、社会に無益無用な活動をする者、時と場所をわきまえずに行動する者。
これらは、行動力はあっても考えの行き届かない場合の弊害である。

だが逆に、考えばかりが高尚遠大で、行動力が伴わない場合も述べる。

理想のみが高尚遠大で行動力に乏しい者は、常に不平を抱いていなければならない。
なぜなら、自分にできそうな仕事は、ことごとく理想とかけ離れているからである。
また、かといって理想を存分に実現させるには、行動力に欠けるからである。

そこで、自分を責めずに他人をとがめたり、時勢にあわない、運が悪いなどと言ってこの世になすべき仕事がないかのように思いこむ。
そしてひたすら世の中に背を向けて、独り思い悩むのである。
怨み言(うらみごと)を口にしては、不平を顔にあらわし、自分以外はすべて的だ、世の中はみんな自分に不親切だと逆恨みする。

いまの世に、この手の不平家ははなはだ多い。
そんな彼らでも、行動力に応じて仕事をさせれば、自然と活動的にもなるだろう。
仕事が進むにつれてその楽しさも覚え、ついには理想と活動が一致することになるはずである。

しかし彼らが行動することはない。
そして不平や不満は、ますます大きくなるばかりである。

このような者たちは、他人に嫌われて孤立することがある。

こういう人間が他人と行動力を比較すれば、もちろん他人にはかなわない。
だが、自分の理想に照らして他人の行動をみれば、そこに自然ひそかな軽蔑の念がわくのを禁じ得ない。
ところが、みだりに他人を軽蔑すれば、必ず他人からも軽蔑される。
そしてお互いに軽蔑し合っていれば、最後には世間からつまはじきされてしまうのが関の山だ。

おごり高ぶって嫌われる者。
人に勝つことだけを望んで嫌われる者。
人に多くを望みすぎて嫌われる者。
人の悪口を言って嫌われる者。
これらはどれをとっても、自分と他人との比較を誤った者ばかりだ。
独りよがりの高尚な理想を基準にして、他人の行動を評価するばかりか、そこに勝手な空想を持ち込むために、人に嫌われるもとをつくるのである。
そして最後には、自分から人を遠ざけ、孤立無援の苦境に陥ってしまうのである。

そこで、後進の青年諸君に一言忠告したい。
もし他人の仕事に不満があれば、自分でその仕事を試みてみたまえ。

他人の商売のやり方がまずいと思ったら、自分でその商売をやってみたまえ。
隣家の生活がずさんに思えたら、自分の家で試してみたまえ。
他人の著作を批評したいと思ったら、自分で筆をとって書物を著してみたまえ。
学者を批評したければ、学者になることだ。
医者を批評したければ、医者になることだ。

世の重大事からごくささいな事にいたるまで、たとえどんなことでも、他人の行動に口出ししようと思うなら、試しに自分をその立場に置いて、自らを振り返ってみるべきである。

まったく性格の違う職業だったら、その仕事の難易や意味の軽重をよくよく推し量ってみるべきである。
たとえ種類の違う仕事でも、その仕事の内容にまで立ち入って仕事の中味を基準にし、自分と他者との立場を比較すれば、そこに大きな誤りは生じないはずだ。

●●
十七編(1876年11月)

まわりの人々から、この人は頼もしい人だ、しっかりした人だと信頼され、あてにされ、期待される人物を、人望がある人という。
人間社会において、普段から他人にあてにされるようでなければ、到底ものごとを成就することなどできない。

三井(三越)や大丸の品は、信用があるから売れるのだ。
滝沢馬琴の小説は、信用があるから売れるのだ。
信用を得ること、人望を得ることの大切さがここにある。

人望とは、その人の才能、智恵の働き、正直な心(誠実さ)によって、徐々に得られるものなのである。

しかし、世間には人望と似て非なることを考える者も多い。
世間には、本物、偽物、善悪入り乱れて、どれが真実なのか区別がつかない。
だが、だからといって世間を避け、みな害悪だと言うばかりでは社会の進歩は望めない。

社会の人間関係は嘘やごまかしだけで成り立っているのではない。
栄誉や人望は、もちろん、努力して求めるべきである。
自分の立場をはっきりと自覚し、自分に適した評価を求めるべきである。

孔子の、「君子は人の己を知らざるを憂えず、人を知らざるを憂う」(君子、つまり才と徳のある人は、他人が自分を評価しないからとて悲観しない。むしろ、自分が優れた他人を知らずにいることを心配する)という主張がある。
これを日本の儒学者は、ただ引っ込み思案でさえあればよい、奥ゆかしくあればよい、などと誤解した。

私たちはこんないやらしい悪習から脱し、活き活きとした人間社会に参加し、多くの事物、各階層の人々に交わり、他人を知り、他人にも知られねばならないのである。

そこで、一身に備わった自分の性格、実質的な実力を存分に発揮し、社会に貢献するのに必要な3条件を述べる。

1.言葉の効果的な使い方を学ぶ。

言葉は、なるべく流暢で活き活きとしているのがよい。
演説会では、講師の意見を聴くだけでなく、演説者のしゃべり方も学ぶことが必要である。
言葉を流暢に話し、語彙を豊富にし、活き活きと伝える方法は、そこでこそ得られるのだ。

学生の中には、日本語は不自由だから、英語を使い、英文ですべてまかなえばよいなどと酷い意見をいう者がいる。
こういう学生は日本人として、十分に日本語を学んでいない人間であり、日本語をきちんと話すことさせできない者にちがいない。
母国語は文明の進歩につれて発達するもので、使うのになんら不自由なはずはない。

現代の日本人は現代の日本語に十分に習熟して、演説がうまくなるよう努力すべきである。

2.顔かたちを明るくし、人と会った時、人から嫌われないようにする。

顔色や容貌を活き活きと明るく見せることは、人間としての基本的な条件である。

人間の心の働きは、進めれば進めるほどよりよく発達する。
それは、体を鍛えれば筋肉が強くなるのと同様である。
言葉遣いも顔かたちも、決して生まれつきのものではなく、心身の働きによって良くなるものなのである。

虚飾(うわべを飾ること)は、社交面の弊害であって、決して社交の本質ではない。
本質に背く時、必ず悪習が生じる。

うわべの飾りを捨て、見栄を去り、率直であってはじめて親愛の情が生まれる。
交際における親睦は、この率直さの中にこそある。

3.旧友を忘れず、新しい友を求める。

「道おなじからざれば相与に謀らず」(『論語』。考え方が違う者とは、心を打ち明けるつきあいをしない)という言葉がある。

だが、お互いにつきあってみなければ、意思が通じるはずがない。
そうでなければ相手を理解することなどできない。

友人とは、そう簡単にできるものではない。
10人会って、1人の友ができればいいほうだ。

それならば、20人に会えば2人の友が得られるではないか。
人を知り、人に知られるはじめはここにある。
人望とか栄誉のことは別にして、ともかく多くの友人を世間に持つのはさしあたり便利ではないか。

人はあくまで人であり、自分に害を加える悪人がそうそういるわけでもない。
恐れず、遠慮せず、真情を率直に表してつきあうべきだ。

交際を広くする要点は、心の働きを活発にし、多芸、多能を心がけ、多方面の人と接することにある。
学問、商業、書画、碁、将棋など、遊び事や女狂いの悪事以外なら、友人と会うことはどんな場合でもみな、交際を広げる手段となる。
茶を飲むだけでもよし、腕相撲だって一座の興(きょう)となる。

人間を毛嫌いする必要はない。
世界は広く、人間の交際は複雑なのである。
井戸の中で一生を暮らす数尾の鮒(ふな)とは、どうにも事情が違うのである。

<編集文ここまで>

◆◆◆
『学問のすゝめ』の原文と要点について

>> 福沢諭吉 学問のすすめ
http://www.aozora.gr.jp/cards/000296/files/47061_29420.html
>> 福沢諭吉 (著)、檜谷昭彦 (翻訳)/『現代語訳 学問のすすめ』/三笠書房、2010
<編集文ここから>

初編
(1872年(明治5年)2月)

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言われている。

>> Declaration of Independence – Text Transcript
http://www.archives.gov/exhibits/charters/declaration_transcript.html
>> 独立宣言(1776 年)
http://aboutusa.japan.usembassy.gov/j/jusaj-majordocs-independence.html
<編集文ここから>

We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty and the pursuit of Happiness.
われわれは、以下の諸事実を自明のことと信じる。
すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む、不可侵の権利を与えられているということを。

<編集文ここまで>

されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥(どろ)との相違あるに似たるはなんぞや。
しかし、広く人間社会を見渡すと、人間の暮らしには雲泥の差がある。
なぜだろうか。

その次第はなはだ明らかなり。
その理由は、まことにはっきりしている。

『実語教(じつごきょう)』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。
『実語教』という修身の本には、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」(人は学ばなければ才能が備わらない。智恵なき者は、愚かな者である。)とある。

されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。
つまり、賢人と愚人の違いは、学ぶか学ばないかによって決まるのである。

されば前にも言えるとおり、人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。
つまり前述の通り、人間には貴賤・貧富の差はない。

ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人(げにん)となるなり。
したがって、学問に励み、物事をよく知った者は偉くなり、無学な者は貧しく、身分の低い人間になるというのである。

学問とは、ただむずかしき字を知り、解(げ)し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。
学問とは、ただ難しい文字を知ることではない。
世間に役立たぬ学問を指しているのではない。

されば今、かかる実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。
このような現実的ではない学問は二の次にして、まずやるべきことは、日常業務に必要な実用の学問である。

譬(たと)えば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言(もんごん)、帳合いの仕方、算盤(そろばん)の稽古、天秤(てんびん)の取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条ははなはだ多し。
例えば、文字を習い、手紙の書き方、帳簿のつけ方、そろばんの練習、はかりの使い方など、学ぶべきことは多い。

地理学とは日本国中はもちろん世界万国の風土(ふうど)道案内なり。

究理学とは天地万物の性質を見て、その働きを知る学問なり。
(究理学、窮理学:物理学のこと)。

歴史とは年代記のくわしきものにて万国古今の有様を詮索する書物なり。

経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。

修身学とは身の行ないを修め、人に交わり、この世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり。

これらの学問をするに、いずれも西洋の翻訳書を取り調べ、たいていのことは日本の仮名にて用を便じ、あるいは年少にして文才ある者へは横文字をも読ませ、一科一学も実事を押え、その事につきその物に従い、近く物事の道理を求めて今日の用を達すべきなり。
このような学問をするには、やさしい日本語に訳した洋書の翻訳書を読むことで間に合うだろう。
若く文才のある者には、原書を薦める。
そして、どの科目でも事実を押さえ、確かめ、その結果に立ち、事物の基本的な筋道を知るべきだ。
それが日常生活に役立つのである。

右は人間普通の実学にて、人たる者は貴賤上下の区別なく、みなことごとくたしなむべき心得なれば、この心得ありて後に、士農工商おのおのその分を尽くし、銘々の家業を営み、身も独立し、家も独立し、天下国家も独立すべきなり。
これらは人間誰もが学ぶべき「実学」であり、身分・貧富の差もなく、全ての人間が身につけて当然の学問なのである。
この学問が身についてこそ、それぞれの立場で自分の務めを果たし、家の仕事を営むことができるのである。
それが「一身の独立」である。
ひいては家の独立であり、国家の独立につながるのである。

学問をするには分限を知ること肝要なり。
学問をするには、自分の立場を知ること、これが大切だ。

人の天然生まれつきは、繋(つな)がれず縛られず、一人前(いちにんまえ)の男は男、一人前の女は女にて、自由自在なる者なれども、ただ自由自在とのみ唱えて分限(ぶんげん)を知らざればわがまま放蕩に陥ること多し。
人間は生まれたときから誰にも干渉されず、男女とも一人前の人間として自由に生きている。
たしかに人は自由なのだが、ただ自由自在だとばかり主張して、自分の立場を知らないでいたら、それはわがままになり、身を持ち崩すことになる。

すなわちその分限とは、天の道理に基づき人の情に従い、他人の妨げをなさずしてわが一身の自由を達することなり。
すなわち、自分の立場(分限)とは、天の定めた道理に基づき、人間の情を大事にし、他人を妨げず、一身の自由を守ることである。

自由とわがままとの界(さかい)は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。
自由とわがままの違いは、他人を妨げるかどうかにある。

また自由独立のことは人の一身にあるのみならず、一国の上にもあることなり。
ところで、自由と独立の問題は、一身のことに関わるだけでなく、国の問題でもある。

わが日本はアジヤ州の東に離れたる一個の島国にて、古来外国と交わりを結ばず、ひとり自国の産物のみを衣食して不足と思いしこともなかりしが、嘉永年中アメリカ人渡来せしより外国交易(こうえき)のこと始まり、今日の有様に及びしことにて、開港の後もいろいろと議論多く、鎖国攘夷(じょうい)などとやかましく言いし者もありしかども、その見るところはなはだ狭く、諺(ことわざ)に言う「井の底の蛙(かわず)」にて、その議論とるに足らず。
わが日本は、アジアの東の、大陸から離れた小さな島国で、長く外国と交際せず、鎖国を守り、自国内で自給自足して今日まできた。
嘉永年間(1848-1854)、アメリカ人の渡来以後、外国貿易が始まり開港した後も、世間では、鎖国だ攘夷だと議論がやかましかった。
その議論は実にくだらないもので、「井の中の蛙」が広い世界も知らずに、ただわめいているようなものであった。

日本とても西洋諸国とても同じ天地の間にありて、同じ日輪に照らされ、同じ月を眺め、海をともにし、空気をともにし、情合い相同じき人民なれば、ここに余るものは彼に渡し、彼に余るものは我に取り、互いに相教え互いに相学び、恥ずることもなく誇ることもなく、互いに便利を達し互いにその幸いを祈り、天理人道に従いて互いの交わりを結び、理のためにはアフリカの黒奴(こくど)にも恐れ入り、道のためにはイギリス・アメリカの軍艦をも恐れず、国の恥辱とありては日本国中の人民一人も残らず命を棄(す)てて国の威光を落とさざるこそ、一国の自由独立と申すべきなり。
日本人も西洋諸国の人民も、同じ天地の間にあって、同じ太陽、同じ月、海、空気を共にし、お互いに通じ合う人情を持つ人民ではないか。
余った産物は与え、外国に余っている産物はもらい、教えあい、恥じたり自慢したりせず、お互いに相手国の便宜を考えて、その発展を願うべきであろう。
天の道理、人間の道に従い、国際交流に尽くすべきである。
正しい道理であれば、アフリカ発展途上国の黒人にも過ちを詫び、正しい立場を保つためには、英米の軍艦をも恐れてはならない。
国家が恥辱を受けた時は、日本国中の人民が一人残らず、命を捨てて国家の名誉を守り抜くことこそ、一国の自由・独立はあるのである。

しかるを支那人などのごとく、わが国よりほかに国なきごとく、外国の人を見ればひとくちに夷狄(いてき)夷狄と唱え、四足にてあるく畜類のようにこれを賤(いや)しめこれを嫌(きら)い、自国の力をも計らずしてみだりに外国人を追い払わんとし、かえってその夷狄に窘(くる)しめらるるなどの始末は、実に国の分限を知らず、一人の身の上にて言えば天然の自由を達せずしてわがまま放蕩に陥る者と言うべし。
にもかかわらず、中国人のように、自国の他に国はないように考え、外国人をみれば「夷狄」と呼んで獣類のように軽蔑し、かえって外国に憎まれ、痛い目をみている例も実際にある。
これなどは国の立場(分限)をわきまえない、自由の意味をはきちがえた、わがままなあり方であろう。

されば今より後は日本国中の人民に、生まれながらその身につきたる位などと申すはまずなき姿にて、ただその人の才徳とその居処(きょしょ)とによりて位もあるものなり。
(王政復古以来、日本の政治は一変した。)だからこれからは、自分の才能と品格、自己の立場によって、人間の地位が決まるのだ。

今の世に生まれ報国の心あらん者は、必ずしも身を苦しめ思いを焦がすほどの心配あるにあらず。
現代に生まれ、国に報いる心があるくらいの人間なら、日本の将来に大きな不安や悩みなど抱く必要はない。

ただその大切なる目当ては、この人情に基づきてまず一身の行ないを正し、厚く学に志し、博(ひろ)く事を知り、銘々の身分に相応すべきほどの智徳を備えて、政府はその政(まつりごと)を施すに易(やす)く、諸民はその支配を受けて苦しみなきよう、互いにその所を得てともに全国の太平を護らんとするの一事のみ。
目的はただひとつ、国の平和を守ることのみである。
そのためには、人民ひとりひとりが自分の行いを正し、学問に志し知識を広め、各自の立場に応じて才能と人格を磨くことが、なによりも大事なのである。
一方、政府は、政治の施策をわかりやすく国民に知らせること、その政策が国民に平穏な生活をもたらすことをこそ、目的とすべきである。

今余輩の勧むる学問ももっぱらこの一事をもって趣旨とせり。
いま、私の勧める学問は、まさにこの一点をのみ目指しているのである。

端書(はしがき)

このたび余輩の故郷中津に学校を開くにつき、学問の趣意を記して旧(ふる)く交わりたる同郷の友人へ示さんがため一冊を綴りしかば、或る人これを見ていわく、「この冊子をひとり中津の人へのみ示さんより、広く世間に布告せばその益もまた広かるべし」との勧めにより、すなわち慶応義塾の活字版をもってこれを摺(す)り、同志の一覧に供うるなり。
このたび、私の故郷、大分県中津に学校を開くにあたり、学問の目的を書き、同郷の古い友人に見せるために、この書を編んだ。
これを見た人が言うには、ただ中津の人に示すだけでなく、社会へ広めたほうがはるかに有益だろうというので、ここに慶應義塾の活版で印刷し、同志に読んでもらうことにした。

明治四年未(ひつじ)十二月

福沢諭吉
小幡篤次郎 記

<編集文ここまで>

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>> 福沢諭吉 学問のすすめ
http://www.aozora.gr.jp/cards/000296/files/47061_29420.html
>> 福沢諭吉 (著)、檜谷昭彦 (翻訳)/『現代語訳 学問のすすめ』/三笠書房、2010
<編集文ここから>

二編
(1873年(明治6年)11月)

端書

数年の辛苦を嘗め、数百の執行金(しゅぎょうきん)を費やして洋学は成業したれども、なおも一個私立の活計をなし得ざる者は、時勢の学問に疎(うと)き人なり。
数年間の辛苦を重ね、多額の学費をかけて洋学を身につけたものの、まだ自分の独立した生活さえ立てられぬ者は、現代の学問に通じているとは思えない。

これらの人物はただこれを文字の問屋と言うべきのみ。
こういう人物は、「知識の問屋」にすぎない。

その功能は飯を食う字引に異ならず。
それは、飯を食う辞書である。

国のためには無用の長物、経済を妨ぐる食客と言うて可なり。
国のためには無用の長物、国家経済にとっては有害な穀潰し(ごくつぶし)である。

ゆえに世帯も学問なり、帳合いも学問なり、時勢を察するもまた学問なり。
つまり、世を渡るのも学問であり、帳簿をつけるのも、時代の情勢を見極めるのも学問なのである。

なんぞ必ずしも和漢洋の書を読むのみをもって学問と言うの理あらんや。
なにも、和漢洋の書を読むことだけが学問ではないのだ。

人は同等なること
「人はみな平等」の正しい意味について

しかるに幕府のとき政府のことをお上(かみ)様と唱え、お上の御用とあればばかに威光を振るうのみならず、道中の旅籠(はたご)までもただ食い倒し、川場に銭を払わず、人足に賃銭を与えず、はなはだしきは旦那が人足をゆすりて酒代を取るに至れり。
徳川幕府の世では、政府をお上様とあがめていた。
お上のご用ということで、旅中の宿(本陣)の代金はタダで、権力をかさに着て流し場には銭は払わず、人足に賃金を与えず、逆に酒代を取ることさえあった。

沙汰の限りと言うべし。
話にもならない。

かかる悪風俗の起こりし由縁を尋ぬるに、その本(もと)は人間同等の大趣意を誤りて、貧富強弱の有様を悪(あ)しき道具に用い、政府富強の勢いをもって貧弱なる人民の権理通義を妨ぐるの場合に至りたるなり。
なぜこんな悪い習性ができたのか。
それは、人間平等の精神を誤り、貧富強弱の差を悪用し、政府が権力の勢いで、弱い人民の権利を妨げたからである。

ゆえに人たる者は常に同位同等の趣意を忘るべからず。
人間たる者は、常に平等の資格と権利を持つという精神を忘れてはならない。

人間世界にもっとも大切なることなり。
これが最も大切なことなのである。

西洋の言葉にてこれをレシプロシチまたはエクウオリチと言う。
(reciprocity:相互利益、互恵関係。equality:平等、対等)

すなわち初編の首(はじめ)に言える万人同じ位とはこのことなり。
すなわち、初編のはじめに言った、万人はみな同じ地位・資格を持つとはこのことである。

されば一国の暴政は必ずしも暴君暴吏の所為のみにあらず、その実は人民の無智をもってみずから招く禍なり。
つまり、一国の圧政の原因は、暴君や権力者のせいだけではない。
人民の無智が自ら招く禍(わざわい)でもあるのだ。

かかる賊民を取り扱うには、釈迦も孔子も名案なきは必定、ぜひとも苛刻(かこく)の政を行なうことなるべし。
これら賊民を扱うのに、釈迦も孔子にして名案はあるまい。
それには、専制的な厳しい政治を行う以外にない。

ゆえにいわく、人民もし暴政を避けんと欲せば、すみやかに学問に志しみずから才徳を高くして、政府と相対し同位同等の地位に登らざるべからず。
よって、もし、人民がそんな圧政から逃れたいと思うのであれば、今すぐにでも学問に志し、才能と品格を磨き、政府に対抗して、同等の資格と地位に立つだけの実力を持たねばならない。

これすなわち余輩の勧むる学問の趣意なり。
これが、私の勧める学問の目的である。

<編集文ここまで>

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>> 福沢諭吉 学問のすすめ
http://www.aozora.gr.jp/cards/000296/files/47061_29420.html
>> 福沢諭吉 (著)、檜谷昭彦 (翻訳)/『現代語訳 学問のすすめ』/三笠書房、2010
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三編
(1873年(明治6年)12月)

前条に言えるごとく、国と国とは同等なれども、国中の人民に独立の気力なきときは一国独立の権義を伸ぶること能(あた)わず。
前述のように、国と国とが同等であったにせよ、一国の人民が独立しようとする精神(気力)に欠ける時は、独立国家としての権利を世界に広めることなどできない。

その次第三ヵ条あり。
その理由は3つある。

第一条 独立の気力なき者は国を思うこと深切ならず。
理由1 独立の精神がない国民は、国を愛する心も浅くいいかげんである。

或る人いわく、「民はこれによらしむべしこれを知らしむべからず、世の中は目くら千人目あき千人なれば、智者上にありて諸民を支配し上の意に従わしめて可(か)なり」と。
古人は言った。
「民は、これに由(よ)らしむべし。これを知らしむべからず」(『論語』)と。
世の中には、ものの道理がわかっている者などほとんどいないのだから、知識のある者が政治をして、人民はその政策に従わせておけばよい、いちいち政策の内容を説明する必要はない、という意味である。

この議論は孔子様の流儀なれども、その実は大いに非なり。
これは孔子の教えだが、実際にはひどく現実離れした議論である。

一国中に人を支配するほどの才徳を備うる者は千人のうち一人に過ぎず。
人を支配できるだけの能力がある者など、千人のうち一人いるかどうか。

智者の才徳をもってこの小民を支配し、あるいは子のごとくして愛し、あるいは羊のごとくして養い、あるいは威(おど)しあるいは撫(ぶ)し、恩威ともに行なわれてその向かうところを示すことあらば、小民も識(し)らず知らずして上の命に従い、盗賊、人殺しの沙汰もなく、国内安穏に治まることあるべけれども、もとこの国の人民、主客の二様に分かれ、主人たる者は千人の智者にて、よきように国を支配し、その余の者は悉皆(しっかい)何も知らざる客分なり。
(ごくわずかの)智恵者が、この愚民を子のように羊のように、愛したり脅したりして治めたとする。
人民は、お上の命令にただひたすら従って、平和な日常を送ることができるだろう。
そうなると、治める者と人民は、主人と寄食者(客分、the parasites)の関係になる。

すでに客分とあればもとより心配も少なく、ただ主人にのみよりすがりて身に引き受くることなきゆえ、国を患(うれ)うることも主人のごとくならざるは必然、実に水くさき有様なり。
人民は主人にだけ頼っていればいいのだから、国家の状態を心配することなど、全く必要ないことになる。

国内のことなればともかくもなれども、いったん外国と戦争などのことあらばその不都合なること思い見るべし。
では、この国が外国と戦争になったらどうなるか。

無智無力の小民ら、戈(ほこ)を倒(さかしま)にすることもなかるべけれども、われわれは客分のことなるゆえ一命を棄つるは過分なりとて逃げ走る者多かるべし。
無智無力の人民は、自国を裏切って外国に身を売ることはないにせよ、政府にただ従っているだけの立場だから、命を捨てることなどとても無理だ。
逃亡する者も多く出るに違いない。

さすればこの国の人口、名は百万人なれども、国を守るの一段に至りてはその人数はなはだ少なく、とても一国の独立は叶(かな)い難きなり。
よって、たとえこの国に人口が百万人いたとしても、国を守る気概を持つ者はごくわずかなので、国家の独立など到底実現できない。

第二条 内に居て独立の地位を得ざる者は、外にありて外国人に接するときもまた独立の権義を伸ぶること能わず。
理由2 自分自身の内に独立した気概を持てぬ者は、世間で外国人と接しても、自己の権利を押し通すことなどできない。

第三条 独立の気力なき者は人に依頼して悪事をなすことあり。
理由3 独立の気力なき者は、他の権力に頼って、悪に走ることがある。

今の世に生まれいやしくも愛国の意あらん者は、官私を問わずまず自己の独立を謀(はか)り、余力あらば他人の独立を助け成すべし。
現代の日本人として国を愛する心があれば、自己の独立を考え、他人の独立を援助すべきである。

父兄は子弟に独立を教え、教師は生徒に独立を勧め、士農工商ともに独立して国を守らざるべからず。
父兄は子弟に独立を教え、教師は生徒に独立を勧め、全人民が共に独立し、国を守らねばならない。

概してこれを言えば、人を束縛してひとり心配を求むるより、人を放ちてともに苦楽を与(とも)にするに若(し)かざるなり。
すなわち、人民を束縛して、政治家が自分だけで国事に苦しむことよりも、人民に自由を与え、全人民と共に、苦楽をともにするに越したことは無いのである。

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>> 福沢諭吉 学問のすすめ
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>> 福沢諭吉 (著)、檜谷昭彦 (翻訳)/『現代語訳 学問のすすめ』/三笠書房、2010
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四編
(1874年(明治7年)1月)

学者の職分を論ず

もとより政の字の義に限りたることをなすは政府の任なれども、人間の事務には政府の関わるべからざるものもまた多し。
言うまでもなく、政府が政治に携わるのは当然の務めだが、民間の事業には、政府が関与できぬ部分も多くある。

ゆえに一国の全体を整理するには、人民と政府と両立してはじめてその成功を得(う)べきものなれば、わが輩は国民たるの分限を尽くし、政府は政府たるの分限を尽くし、互いに相助けもって全国の独立を維持せざるべからず。
そこで、一国の全体を整理するには、国民と政府が協力してこそ成功が期待されるのだから、我々は、国民の義務を尽くし、政府も責任を果たし、国の独立を維持せねばならぬのである。

政府は衆智者の集まるところにして一愚人の事を行なうものと言うべし。
政府は、多くの智者が集まって、ひとつの愚行をするところと言えるだろう。

豈(あに)怪しまざるを得んや。
これを不思議に思わないことなど、決してできはしない。

畢竟(ひっきょう)その然る所以はかの気風なるものに制せられて、人々みずから一個の働きを逞しゅうすること能わざるによりて致すところならんか。
この原因こそ、日本人の気風にある。
気風(役人根性、事なかれ主義)に押され、個性を発揮することができないからである。

ゆえにいわく、世の文明を進むるにはただ政府の力のみに依頼すべからざるなり。
こういうわけで、文明化を進めるには、政府の力だけに頼るわけにはいかないのである。

右所論をもって考うれば、方今わが国の文明を進むるには、まずかの人心に浸潤したる気風を一掃せざるべからず。
我が国の文明化を進めるには、まず人心に染みこんだ気風を一掃することだ。

これを一掃するの法、政府の命をもってし難し、私の説諭をもってし難し、必ずしも人に先だって私に事をなし、もって人民のよるべき標的を示す者なかるべからず。
これは政府命令でも、個人の説教でも駄目だ。
それには民間で事業を興し、人民が頼り得る目標たるべき人物が必要である。

今この標的となるべき人物を求むるに、農の中にあらず、商の中にあらず、また和漢の学者中にもあらず、その任に当たる者はただ一種の洋学者流あるのみ。
この目標たるべき人物は、農、商の中にはいない。
国学者、漢学者の中にもいない。
その任に堪え得るのは、我々洋学者仲間だけである。

しかるにまたこれに依頼すべからざるの事情あり。
しかし、これもそう頼りにはならない事情がある。

近来この流の人ようやく世間に増加し、あるいは横文を講じあるいは訳書を読み、もっぱら力を尽くすに似たりといえども、学者あるいは字を読みて義を解さざるか、あるいは義を解してこれを事実に施すの誠意なきか、その所業につきわが輩の疑いを存するもの少なからず。
最近、洋学者も増えてはきたが、彼らは西洋語や翻訳書を読んで学びはするものの、文字を読んでもその本質を理解せず、理解した時も実行に移す誠意に乏しい。

その疑いを存するとは、この学者士君子、みな官あるを知りて私あるを知らず、政府の上に立つの術を知りて、政府の下に居(お)るの道を知らざるの一事なり。
洋学者たちは、政府に勤めることに夢中で、民間に務めることをまるで考えない。

畢竟、漢学者流の悪習を免れざるものにて、あたかも漢を体にして洋を衣にするがごとし。
昔の漢学者のあり方と同じで、漢学の体に洋学の衣を着たようなものである。

けだしその官にあるはただ利これ貪(むさぼ)るのためのみにあらず、生来の教育に先入してひたすら政府に眼を着し、政府にあらざればけっして事をなすべからざるものと思い、これに依頼して宿昔青雲の志を遂げんと欲するのみ。
思うに、官に就いた連中も、ただ利をむさぼるためだけではないのだろう。
日本人特有の教育観が染みついて、官庁勤めが最高の出世だと思い、それを人生の目的にしているのだろう。

しかるにその不誠不実、かくのごときのはなはだしきに至る所以(ゆえん)は、いまだ世間に民権を首唱する実例なきをもって、ただかの卑屈の気風に制せられその気風に雷同して、国民の本色を見(あら)わし得ざるなり。
こうした不誠実な現状が世にはびこるゆえんは、世間に民権(自主独立の民の権利)を主張する実例がなく、卑屈な日本人気質に感染して、本来の特色を見出していないからである。

これを概すれば、日本にはただ政府ありていまだ国民あらずと言うも可なり。
まとめると、日本に政府はあり、民もいる。
しかし、人民はいても国民はいない、ということだろう。

ゆえにいわく、人民の気風を一洗して世の文明を進むるには、今の洋学者流にもまた依頼すべからざるなり。
つまり、人民の気風を一変して文明化を進めるためには、今の洋学者もまた、役に立たないということになる。

また今の洋学者流も依頼するに足らず、必ずわが輩の任ずるところにして、まずわれより事の端を開き、愚民の先をなすのみならず、またかの洋学者流のために先駆してその向かうところを示さざるべからず。
とすれば、これこそ、我々(福澤グループ)がなすべき務めであり、自ら事業をひらき、人民の先頭に立ち、洋学者のさきがけとして日本の展望を示さねばなるまい。

そもそも事をなすに、これを命ずるはこれを諭(さと)すに若(し)かず、これを諭すはわれよりその実の例を示すに若かず。
事をはじめるには、まず詳しく説明するに越したことはない。
それには、自ら実例を示すのがなによりだ。

然りしこうして政府はただ命ずるの権あるのみ、これを諭して実の例を示すは私の事なれば、わが輩まず私立の地位を占め、あるいは学術を講じ、あるいは商売に従事し、あるいは法律を議し、あるいは書を著(あら)わし、あるいは新聞紙を出版するなど、およそ国民たるの分限に越えざることは忌諱を憚(はばか)らずしてこれを行ない、固く法を守りて正しく事を処し、あるいは政令信ならずして曲を被(こうむ)ることあらば、わが地位を屈せずしてこれを論じ、あたかも政府の頂門に一針を加え、旧弊を除きて民権を恢復(かいふく)せんこと方今至急の要務なるべし。
政府には命令を下す権力はあるが、それを説明し実行に移すのは民間の力である。
そこで私は慶應に学ぶ仲間と共に、私立の立場から学術を講義し、商業に従事し、法律を研究し、本を出版し、新聞を発行して人民を啓蒙することにした。
国民としての立場を越えず、政府の忌諱(不興)を恐れず、法を守り、政令が国民に害をもたらすものなら、自分の立場に屈せず堂々と議論し、政府に反省を迫り、民権を取り戻すこと、これこそが我々の急務なのである。

もとより私立の事業は多端、かつこれを行なう人にもおのおの所長あるものなれば、わずかに数輩の学者にて悉皆その事をなすべきにあらざれども、わが目的とするところは事を行なうの巧みなるを示すにあらず、ただ天下の人に私立の方向を知らしめんとするのみ。
言うまでもなく、私立(民間)の事業は多方面に及び、これに携わる者も、それぞれ専門の分野が違っている。
我々少数の学者の手に負えないこともあろうが、その目的とするところは、世の人々に私立の目指す道を知らせたいことであり、事業のやり方のうまさを見せることではない。

百回の説諭を費やすは一回の実例を示すに若かず。
百の説法より一つの実例を示すことが先決なのだ。

今われより私立の実例を示し、「人間の事業はひとり政府の任にあらず。学者は学者にて私に事を行なうべし、町人は町人にて私に事をなすべし、政府も日本の政府なり、人民も日本の人民なり、政府は恐るべからず近づくべし、疑うべからず親しむべし」との趣を知らしめなば、人民ようやく向かうところを明らかにし、上下固有の気風もしだいに消滅して、はじめて真の日本国民を生じ、政府の玩具たらずして政府の刺衝となり、学術以下三者もおのずからその所有に帰して、国民の力と政府の力と互いに相平均し、もって全国の独立を維持すべきなり。
人間の事業は、政府の独占事業ではない。
学者は学者で民間にあって研究すべし。
町人は町人で私(わたくし)に商業をおこすべし。
政府が日本の政府なら、人民も日本の人民だ。
それなら政府を恐れず近づくべきだし、親しむべきで、疑う必要などない。
この意向を人民に理解させることが、まず急務なのである。
こうしてはじめて、日本固有の卑屈な気風も消え、真の国民(人民ではなく)が生まれるであろう。
国民は政府を刺激する力となり、学術、経済、法律も整備され、民力と権力が均衡をとり、国の独立が維持できるはずである。

付録

本論につき二、三の問答あり、よってこれを巻末に記す。
本論について、2、3の質問があった。

二にいわく、「政府、人に乏し、有力の人物、政府を離れなば官務に差しつかえあるべし」と。
質問2。政府に人材は少ない。有能な人材が政府を離れたら、仕事が差し支えるのではないか。

答えていわく、けっして然(しか)らず、今の政府は官員の多きを患(うれ)うるなり。
答え。違う。いまの政府には役人が多すぎる。

事を簡にして官員を減ずれば、その事務はよく整理してその人員は世間の用をなすべし、一挙して両得なり。
行政を簡素化して役人を減らせば業務はうまく流れ、余った人員は民間に活用できる。
一挙両得である。

ことさらに政府の事務を多端にし、有用の人を取りて無用の事をなさしむるは策の拙なるものと言うべし。

かつこの人物政府を離るるも去りて外国に行くにあらず、日本に居て日本の事をなすのみ、なんぞ患(うれ)うるに足らん」
さらに、官をやめても外国へ行くわけではない。
日本にいて日本の仕事をするのである。
心配は無用である。

四にいわく、「私立せんと欲する人物あるも、官途を離るれば他に活計の道なし」と。
質問4。民間で独立しようと思っても、役人をやめると、生活の道がなくなるのではないか。

答えていわく、「この言は士君子の言うべきにあらず。すでにみずから学者と唱えて天下の事を患うる者、豈(あに)無芸の人物あらんや。
答え。こんなことは士君子(学問を志し、法を守る人間)の言うことではない。
知識人として国家を憂える人間に、無芸な人物がいるわけはない。

芸をもって口を糊(こ)するは難きにあらず。
身についた能力で世を渡ることなどわけはない。

かつ官にありて公務を司(つかさど)るも私にいて業を営むも、その難易、異なるの理なし。
公務に就くも民間業務に就くも、そこに差はない。

もし官の事務易(やす)くしてその利益私の営業よりも多きことあらば、すなわちその利益は働きの実に過ぎたるものと言うべし。
もし、同じ労働で公務のほうが割が良いというのなら、それは不当な国費の乱用である。

実に過ぐるの利を貪(むさぼ)るは君子のなさざるところなり。
正当な利益以上のものをむさぼることは、上に立つ者のすべきことではない。

無芸無能、僥倖(ぎょうこう)によりて官途につき、みだりに給料を貪りて奢侈(しゃし)の資となし、戯れに天下のことを談ずる者はわが輩の友にあらず」
無能な役人の公金横領まがいのしわざは、我ら義塾の友ではない。

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五編
(1874年(明治7年)1月)

『学問のすすめ』はもと民間の読本または小学の教授本に供えたるものなれば、初編より二編三編までも勉(つと)めて俗語を用い文章を読みやすくするを趣意となしたりしが、四編に至り少しく文の体を改めてあるいはむずかしき文字を用いたるところもあり。
『学問のすすめ』は元々、民間の入門書または小学校の教科書として読者に供(きょう)したものなので、初編から2、3編までは、できるだけ俗語を用い、文章も読みやすくするように心がけた。
だが、4編からは少し文体を改め、やや難しい文字を用いたところもある。

世の学者はおおむねみな腰ぬけにてその気力は不慥(ふたし)かなれども、文字を見る眼はなかなか慥かにして、いかなる難文にても困る者なきゆえ、この二冊にも遠慮なく文章をむずかしく書きその意味もおのずから高上になりて、これがためもと民間の読本たるべき学問のすすめの趣意を失いしは、初学の輩(はい)に対してはなはだ気の毒なれども、六編より後はまたもとの体裁に復(かえ)り、もっぱら解しやすきを主として初学の便利に供しさらに難文を用いることなかるべきがゆえに、看官この二冊をもって全部の難易を評するなかれ。
世間一般の学生はだいたいみな腰抜けで気力に欠けているが、文字を読む力はなかなかしっかりしている。
どんな難解な文章でも困る者はいないから、この 2冊にも遠慮なく難しく書き、内容も自然と高度なものになった。
そのため、本来の民間人への入門書としての『学問のすすめ』の趣意(目的)を失ったことは、初学の人たちにすまないことをしたと思っている。
6編以降は元の体裁にもどし、わかりやすさを第一に考え、初心者の便利をはかって、決して難解な文章を用いないつもりゆえ、諸君はこの2冊だけを見て、本書全体の難易を批評しないでほしい。

明治七年一月一日の詞

そもそもわが国の人民に気力なきその原因を尋ぬるに、数千百年の古(いにしえ)より全国の権柄を政府の一手に握り、武備・文学より工業・商売に至るまで、人間些末の事務といえども政府の関わらざるものなく、人民はただ政府の嗾(そう)するところに向かいて奔走するのみ。
そもそも、我が国の大衆に気力がない原因をみると、数千年前から全国の権力を政府が一手に握り、軍備も学問も、商工業、さては世の中のささいなことまでお上が関係しないことはなかった。
人民は、政府が指示することに対し、盲目的に従っただけであった。

あたかも国は政府の私有にして、人民は国の食客たるがごとし。
まるで国は政府の私物であり、大衆は国の食客(居候)のようであった。

すでに無宿の食客となりてわずかにこの国中に寄食するを得るものなれば、国を視ること逆旅(げきりょ)のごとく、かつて深切の意を尽くすことなく、またその気力を見(あら)わすべき機会をも得ずして、ついに全国の気風を養いなしたるなり。
かくて無宿人としてこの国に寄食(居候)する意識しか持たぬ大衆にとっては、国家は自分の人生における仮の宿と同じであった。
だから国家の運命は自分とは無関係であり、自分の気力を発揮するところではないと思い、それが日本全土の気風にまで広まったのである。

今、日本の有様を見るに、文明の形は進むに似たれども、文明の精神たる人民の気力は日に退歩に赴(おもむ)けり。請う、試みにこれを論ぜん。
いま日本のありさまを見ると、文明の形態は進歩しているようだが、文明の精神、つまり人民の気力は、日々退歩していると私はみる。
これについて、以下に論じてみよう。

概してこれを言えば、古(いにしえ)の政府は力を用い、今の政府は力と智とを用ゆ。
これを整理していえば、昔の政府は力で支配し、今の政府は力と智力を併用している。

古の政府は民を御するの術に乏しく、いまの政府はこれに富めり。
昔の政府は民をうまく操る術(すべ)を持たず、いまの政府は上手である。

古の政府は民の力を挫(くじ)き、今の政府はその心を奪う。
昔の政府は大衆の力をくじき、今の政府は大衆の心を奪う。

古の政府は民の外を犯し、今の政府はその内を制す。
昔の政府は人間の外見(形態)に口を挟み、いまの政府は人民の精神を支配している。

古の民は政府を視(み)ること鬼のごとくし、今の民はこれを視ること神のごとくす。
古の民は政府を恐れ、今の民は政府を拝む。
だから、昔の民は政府を鬼のように恐れ、今の民は神のように拝むのである。

この勢いに乗じて事の轍(てつ)を改むることなくば、政府にて一事を起こせば文明の形はしだいに具わるに似たれども、人民にはまさしく一段の気力を失い文明の精神はしだいに衰うるのみ。
いま人民がこの誤りを改めず、このままの状態に慣れていくなら、政府によって文明の形態は備わるにせよ、大衆はますます気力をなくし、文明の精神は衰退するばかりだろう。

右に論ずるところをもって考うれば、国の文明は上(かみ)政府より起こるべからず、下(しも)小民より生ずべからず、必ずその中間より興りて衆庶(しゅうしょ)の向かうところを示し、政府と並び立ちてはじめて成功を期すべきなり。
こうして一国の文明は、上(かみ)政府から起こるものでもなく、下(しも)庶民から生まれるものでもない。
その中間にあって民心の向かうところを考え、政府に並ぶ知識を持つ中流階級によってこそ、成功は期待できるのである。

西洋諸国の史類を案ずるに、商売・工業の道、一として政府の創造せしものなし、その本(もと)はみな中等の地位にある学者の心匠に成りしもののみ。
西洋諸国の歴史によれば、商工業の発展は、ひとつとして政府の創造によったものではない。
みな中流の地位にある学者の苦心、努力から生まれている。

その工夫発明、まず一人の心に成れば、これを公にして実地に施すには私立の社友を結び、ますますその事を盛大にして人民無量の幸福を万世に遺(のこ)すなり。
個人が研究、発明したものを社会に広め、実用に役立てるには、民間に会社を組織し、事業を興すことが必要だ。

この間に当たり政府の義務は、ただその事を妨げずして適宜に行なわれしめ、人心の向かうところを察してこれを保護するのみ。
政府はこれを保護し、育成せねばならない。

ゆえに文明の事を行なう者は私立の人民にして、その文明を護する者は政府なり。
すなわち、文明を興すのは民間人であり、保護するのが政府なのである。

これをもって一国の人民あたかもその文明を私有し、これを競いこれを争い、これを羨みこれを誇り、国に一の美事あれば全国の人民手を拍(う)ちて快と称し、ただ他国に先鞭を着けられんことを恐るるのみ。
これでこそ大衆は文明を我がもののように誇れるだろうし、自国の発明に大衆が喜びを共感し、他国に先手を打たれぬよう、協力することになる。

ゆえに文明の事物悉皆(しっかい)人民の気力を増すの具となり、一事一物も国の独立を助けざるものなし。
こうなってはじめて文明の事物は大衆の気力を高め、国の独立を支える力となる。

その事情まさしくわが国の有様に相反すと言うも可なり。
このような事情からすれば、我が国の有様は、まさに正反対というしかあるまい。

今わが国においてかのミッヅル・カラッスの地位に居(お)り、文明を首唱して国の独立を維持すべき者はただ一種の学者のみなれども、この学者なるもの時勢につき眼を着すること高からざるか、あるいは国を患(うれ)うること身を患うるがごとく切ならざるか、あるいは世の気風に酔いひたすら政府に依頼して事をなすべきものと思うか、おおむね皆その地位に安んぜずして去りて官途に赴き、些末の事務に奔走していたずらに身心を労し、その挙動笑うべきもの多しといえども、みずからこれを甘んじ、人もまたこれを怪しまず、はなはだしきは「野(や)に遺賢なし」と言いてこれを悦ぶ者あり。
現在、日本で、中流階級(the middle class)の地位にあり、文明化を主張し国の独立を支えられる者は、ただ独り、知識人のみである。
しかし多くの知識人は、時勢に対する目のつけどころが低く、国を想うことが我が身を愛するほど切実でなく、ともすれば世間の風潮に流される傾向が強い。
大勢として、学問、研究の場を去って官界に入り、些細な事務に追われて身をすり減らしている。
当人はそれに満足し、ひどいのになると「役人は優秀だが、民間には隠れた人材はない」などといって悦に入っている。

もとより時勢の然らしむるところにて、その罪一個の人にあらずといえども、国の文明のためには一大災難と言うべし。
これは文明のためには大きな不幸といえる。

ひとりわが慶応義塾の社中はわずかにこの災難を免れて、数年独立の名を失わず、独立の塾にいて独立の気を養い、その期するところは全国の独立を維持するの一事にあり。
このとき我が慶應義塾は、この風潮に染まらず、創立以来、独立の誇りを失わず、私立の塾として独立の精神を養ってきた。
その目的とするところは、全国の人心の独立を支えようという一点にある。

然りといえども、時勢の世を制するやその力急流のごとくまた大風のごとし。
しかしながら、世の風潮、流行の勢いは、急流のごとく台風のごときである。

この勢いに激して屹立(きつりつ)するはもとより易(やす)きにあらず、非常の勇力あるにあらざれば、知らずして流れ識(し)らずして靡(なび)き、ややもすればその脚を失するの恐れあるべし。
この勢いに反抗し、独り立つことは、もとより容易なことではない。
思い切った勇気こそが、いま我々に求められているのだ。

そもそも人の勇力はただ読書のみによりて得べきものにあらず。
人間の勇気は、読書からのみ得られるものではない。

読書は学問の術なり、学問は事をなすの術なり。
読書は、学問の手段である。
学問は、実践への方法である。

実地に接して事に慣るるにあらざればけっして勇力を生ずべからず。
実地に臨み、経験を積んでこそ、勇気と力が生まれるはずである。

わが社中すでにその術を得たる者は、貧苦を忍び艱難(かんなん)を冒して、その所得の知見を文明の事実に施さざるべからず。
我が慶應義塾ですでに学術を得た者は、貧苦に耐え、困難をものともせず、得た知識を文明化に注ぐことが必要だ。

その科(とが)は枚挙に遑(いとま)あらず。
それへの道は、学問の分野を問わない。

商売勤めざるべからず、法律議せざるべからず、工業起こさざるべからず、農業勧めざるべからず、著書・訳術・新聞の出版、およそ文明の事件はことごとく取りてわが私有となし、国民の先をなして政府と相助け、官の力と私の力と互いに平均して一国全体の力を増し、かの薄弱なる独立を移して動かすべからざるの基礎に置き、外国と鋒(ほこさき)を争いて毫(ごう)も譲ることなく、今より数十の新年を経て、顧みて今月今日の有様を回想し、今日の独立を悦ばずしてかえってこれを愍笑(びんしょう)するの勢いに至るは、豈(あに)一大快事ならずや。
商業もしかり、法律も議論し、工業の振興、農業の奨励、著作、翻訳、新聞の発行、文明に関する事柄すべて自分の役割と考え、国民の先頭に立って政府に協力すべきである。
官の力と民間の力とが均衡するとき、一国の国力は増大し、独立の確かな基礎が固まり、外国と対等につき合うことができるのである。
今から数十年後の新年会で、今日(こんにち)のことを振り返ったとき、「私たちはあの時、あの程度の独立を喜んでいたのだ」と憐れむだけの国力を身につけたいと思う。
そのときこそ、素晴らしい新年ではあるまいか。

学者よろしくその方向を定めて期するところあるべきなり。
諸君、この目標に向けて各自の将来のあるべき照準を、今日この新春にこそ定めるべきだ。
私はそう言いたい。

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>> 福沢諭吉 学問のすすめ
http://www.aozora.gr.jp/cards/000296/files/47061_29420.html
>> 福沢諭吉 (著)、檜谷昭彦 (翻訳)/『現代語訳 学問のすすめ』/三笠書房、2010
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六編
(1874年(明治7年)2月)

国法の貴きを論ず

政府は国民の名代(みょうだい)にて、国民の思うところに従い事をなすものなり。
政府は国民の代理で、国民の思うところに従い、事を行うものである。

その職分は罪ある者を取り押えて罪なき者を保護するよりほかならず。
その務めは、罪ある者を捕らえ、罪なき者を保護することにある。

すなわちこれ国民の思うところにして、この趣意を達すれば一国内の便利となるべし。
これがうまくいけば、国内の状態はどんなに都合良いことだろう。

たとい、あるいはその手当てをなすも莫大の入費にて益もなきことなるゆえ、右のごとく国民の総代として政府を立て、善人保護の職分を勤めしめ、その代わりとして役人の給料はもちろん、政府の諸入用をば悉皆(しっかい)国民より賄(まかな)うべしと約束せしことなり。
たとえ、(国民ひとりひとりが自分の力で犯罪者に対する防犯ができたとしても、)それには莫大な防犯費用が必要となる。
そこで国民の代表として政府に保護を依頼し、その代わりに役人の給料はもちろん、政府の諸費用をすべて税金で賄おうと約束したのである。

かつまた政府はすでに国民の総名代となりて事をなすべき権を得たるものなれば、政府のなすことはすなわち国民のなすことにて、国民は必ず政府の法に従わざるべからず。
また政府は、国民の総代理人として事にあたる権利を持ったのだから、政府が行うことは即(そく)国民のためであり、したがって国民は、その政府の法律に従わねばならないのである。

これまた国民と政府との約束なり。
これもまた、国民と政府との約束である。

ゆえに国民の政府に従うは政府の作りし法に従うにあらず、みずから作りし法に従うなり。
つまり、国民が政府に従うというのは、政府が作った法に従うのではなく、自分で作った法に従うのである。

国民の法を破るは政府の作りし法を破るにあらず、みずから作りし法を破るなり。
法を破れば自分で作った法を破ることになる。

その法を破りて刑罰を被(こうむ)るは政府に罰せらるるにあらず、みずから定めし法によりて罰せらるるなり。
法を犯し刑罰を受けるのは、政府に罰せられることではなく、自分で決めた法によって罰せられることである。

この趣を形容して言えば、国民たる者は一人にて二人前の役目を勤むるがごとし。
いわば国民は、一人が二人分の役目を務めているのである。

すなわちその一の役目は、自分の名代として政府を立て、一国中の悪人を取り押えて善人を保護することなり。
1つ目の役目は、自分の代理人として政府を立て、国内の犯罪者を捕らえ、国民を保護することである。

その二の役目は、固く政府の約束を守りその法に従いて保護を受くることなり。
二つ目の役目は、政府との約束を堅く守り、法に従い、保護を受けることである。

実はかの御大法なるもの、あまり煩(わずら)わしきに過ぎて事実に施すべからざるよりして、この内証事も行なわるることなるべしといえども、一国の政治をもってこれを論ずれば、もっとも恐るべき悪弊なり。
確かに、お上の大法はあまりに煩わしく、現実にそぐわない点もあるのでこんな内証事(役人に賄賂を渡し、罪を犯し、それを隠蔽すること)も起こるのだろうが、一国の政治的見地からすれば、やはりこれは恐るべき悪の習慣である。

ゆえに政府にて法を立つるは勉(つと)めて簡なるを良とす。
よって、政府は立法にあたり、法はできるだけ簡単なものにするのがよい。

すでにこれを定めて法となすうえは必ず厳にその趣意を達せざるべからず。
しかし、厳にその施行を達成すべきである。

人民は政府の定めたる法を見て不便なりと思うことあらば、遠慮なくこれを論じて訴うべし。
一方、国民は、その法律がどうにも不便だと思えば、遠慮せずにこれを論じ、訴えるべきである。

すでにこれを認めてその法の下に居るときは、私にその法を是非することなく謹んでこれを守らざるべからず。
ただし、すでにその法が施行されている間は、その法を守るのが義務であろう。

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>> 福沢諭吉 学問のすすめ
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八編
(1874年(明治7年)4月)

わが心をもって他人の身を制すべからず

さて独立といえば、ひとり世の中の偏人奇物にて世間の付合いもなき者のように聞こゆれども、けっして然らず。
さて、一身の独立というと、世間から変わり者のように見られ、人づきあいもない人物のように思われるが、それは違う。

人として世に居(お)れば、もとより朋友なかるべからずといえども、その朋友もまたわれに交わりを求むることなおわが朋友を慕うがごとくなれば、世の交わりは相互いのことなり。
人とのつきあいはお互いのことであり、私が友を求めれば、人も私を求めるようなものである。

ただこの五つの力を用うるに当たり、天より定めたる法に従いて、分限を越えざること緊要なるのみ。
ただこの5つの力(身体、智恵、欲求、誠実さ、意思)を発揮するにあたり、天が定めた法に従い、自分の分限を越えないことが大切な生き方だ。

すなわちその分限とは、我もこの力を用い、他人もこの力を用いて、相互にその働きを妨げざるを言うなり。
その分限とは、自分が力を発揮するとき、他人もやはりその人なりの力を発揮しているのだと自覚して、お互いに相手の努力を妨害しないことである。

かくのごとく、人たる者の分限を誤らずして世を渡るときは、人に咎(とが)めらるることもなく、天に罪せらるることもなかるべし。
この分限(人としての限度)を守って世間を渡るなら、世間の非難を浴びず、罰を受けることもないはずだ。

これを人間の権義と言うなり。
これこそが人間の権利と義務である。

右の次第により、人たる者は他人の権義を妨げざれば、自由自在に己(おの)が身体を用うるの理あり。
このようにして、人たるものは、他人の権利を妨げさえしなければ自由に行動すべきで、端からあれこれ口を出されるいわれはない。

その好むところに行き、その欲するところに止まり、あるいは働き、あるいは遊び、あるいはこの事を行ない、あるいはかの業をなし、あるいは昼夜勉強するも、あるいは意に叶わざれば無為にして終日寝るも、他人に関係なきことなれば、傍(かたわら)よりかれこれとこれを議論するの理なし。
好きなところへ行き、居たい所に留まり、遊ぼうと働こうと、学ぼうと寝ていようと、それは本人の勝手なのである。

数千百年の古(いにしえ)より和漢の学者先生が、上下貴賤の名分とて喧(やかま)しく言いしも、つまるところは他人の魂をわが身に入れんとするの趣向ならん。
数千年の昔から和漢の学者が上下・貴賤の身分ばかりをやかましく論じたのも、結局は他人の魂を自分の身に入れさせようというたくらみ(権力者が大衆の権利を制限し支配しようとするたくらみ)だったに違いない。

これを教えこれを説き、涙を流してこれを諭(さと)し、末世の今日に至りてはその功徳もようやく顕われ、大は小を制し強は弱を圧するの風俗となりたれば、学者先生も得意の色をなし、神代の諸尊、周の世の聖賢も、草葉の蔭にて満足なるべし。
彼らが涙を流してこれを教え説いたおかげで、世も末の今では、強者は弱者を制する社会となった。
神代の神や中国古代の聖人君子も、これをみればさぞやご満足のことだろう。

元来不孝とは、子たる者にて理に背(そむ)きたることをなし、親の身心をして快からしめざることを言うなり。
もともと不幸とは、子としての立場に外れ、親に心身の苦痛を味わわせた行為をいう。

もちろん老人の心にて孫の生まるるは悦ぶことなれども、孫の誕生が晩(おそ)しとて、これをその子の不幸と言うべからず。
もちろん年寄りとしては、孫が生まれるのは嬉しい。
だが、孫が生まれないからといって、我が子を不孝者と呼ぶだろうか。

親に孝行するはもとより人たる者の当然、老人とあれば他人にてもこれを丁寧にするはずなり。
親に孝行するのは人間として当然だ。
老人には、他人でも丁寧にするはずだ。

まして自分の父母に対し情を尽くさざるべけんや。
まして、自分の父母に情を尽くさぬ者があろうか。

利のためにあらず、名のためにあらず、ただ己が親と思い、天然の誠をもってこれに孝行すべきなり。
それは利益や名誉のためではない。
ただ自分の親だから、自然の情で孝行を尽くすのである。

古来和漢にて孝行を勧めたる話ははなはだ多く、『二十四孝』をはじめとしてそのほかの著述書も計(かぞ)うるに遑(いとま)あらず。
昔から考をすすめる話は、『二十四孝』の物語をはじめとしてその数は極めて多い。

しかるにこの書を見れば、十に八、九は人間にでき難きことを勧むるか、または愚にして笑うべきことを説くか、はなはだしきは理に背きたることを誉(ほ)めて孝行とするものあり。
しかしながら、『二十四孝』の話は、十中八九、人間に不可能なことか、あまりにもバカげだことを説いており、理屈にあわない行為を孝行だとしている例である。

畢竟、この孝行の説も、親子の名を糺(ただ)し上下の分を明らかにせんとして、無理に子を責むるものならん。
つまりこの教えは、親と子の上下の身分を定め、むりやり子の立場の弱さを強調したものである。

右は上下貴賤の名分より生じたる悪弊にて、夫婦親子の二例を示したるなり。
以上は、旧道徳の上下貴賤の身分についての考えから生じた悪い例だ。

世間にこの悪弊の行なわるるははなはだ広く、事々物々、人間の交際に浸潤せざるはなし。
この夫婦、親子の関係をめぐる弊害はまことに多く、様々な形で社会に染みこんでいるのである。

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>> 福沢諭吉 学問のすすめ
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九編
(1874年(明治7年)5月)

学問の旨を二様に記して
中津の旧友に贈る文

人の心身の働きを細かに見れば、これを分かちて二様に区別すべし。
人間の心身の動きを詳しくみると、その働きは2通りに分けて考えることができる。

第一は一人たる身につきての働きなり。
第1に、自立した個人としての活動である。

第二は人間交際の仲間に居(お)り、その交際の身につきての働きなり。
第2に、人間社会における活動である。

もとより独立の活計は人間の一大事、「汝の額の汗をもって汝の食(めし)を食(く)らえ」とは古人の教えなれども、余が考えには、この教えの趣旨を達したればとていまだ人たるものの務めを終われりとするに足らず。
もちろん、独立した生活を営むことは、人間として大切なことである。
「汝の額の汗をもって汝の食(めし)を食らえ」(自力で生活せよ)とは、古人の教えである。
しかし私の考えでは、この教えを忠実に守ったとしても、それで人間としての責務が果たせたとは思えない。

西人言えることあり、「世の人みなみずから満足するを知りて小安に安んぜなば、今日の世界は開闢(かいびゃく)のときの世界にも異なることなかるべし」と。
西洋の人が言っている。
「世の人みなが自分のことのみに満足し、小さな安楽に留まっているなら、今日の世界は天地の始めの時代と異なることがないだろう」と。

このことまことに然り。
その通りだ。

往古或る支那人の言に、「天下を治むること肉を分かつがごとく公平ならん」と言い、「また庭前の草を除くよりも天下を掃除せん」と言いしも、みな人間交際のために益をなさんとするの志を述べたるものにて、およそ何人(なんびと)にてもいささか身に所得あればこれによりて世の益をなさんと欲するは人情の常なり。
昔、中国の人が、「天下を治むること肉を分かつがごとく公平ならん」(祝祭の場の肉を公平に村人に分配するような正しい政治をやりたい)と言った。
また、「また庭前の草を除くよりも天下を掃除せん」(庭の草を抜くより世の中の掃除がしたい)とも言った。
これも、社会に役立ちたいという志を述べたものである。
どんな人間でも、多少なりとも身に長所があれば、それを世の中に役立てたいと思うのは人情であろう。

あるいは自分には世のためにするの意なきも、知らず識(し)らずして後世、子孫みずからその功徳を蒙(こうむ)ることあり。
時には、世のためという意識が本人にないのに、知らず知らずのうちに子孫がその恩恵を受けることだってある。

人にこの性情あればこそ人間交際の義務を達し得るなり。
人間にこの心情があるからこそ、社会における義務も遂行できるのだ。

古(いにしえ)より世にかかる人物なかりせば、わが輩今日に生まれて今の世界中にある文明の徳沢を蒙るを得ざるべし。
古来、世の中にこのような人物がいなかったならば、我々は、今日の世界中に満ちあふれている文明の恩恵に浴することもできなかったであろう。

世界中の古人を一体にみなし、この一体の古人より今の世界中の人なるわが輩へ譲り渡したる遺物なれば、その洪大なること地面、家財の類にあらず。
古来からの人類全体を一人の人間とみなせば、その人が我々人間すべてに譲ってくれた遺産なのだ。
この遺産は莫大で、土地や家財とは比べものにならない。

ただこれを古人の陰徳恩賜と言うべきのみ。
これはただ古人の隠れた徳による恩恵といえる。

ただに有形の器械のみ新奇なるにあらず、人智いよいよ開くれば交際いよいよ広く、交際いよいよ広ければ人情いよいよ和らぎ、万国公法の説に権を得て、戦争を起こすこと軽率ならず、経済の議論盛んにして政治・商売の風を一変し、学校の制度、著書の体裁、政府の商議、議院の政談、いよいよ改むればいよいよ高く、その至るところの極を期すべからず。
有形の機械だけが革新していくのではない。
人間の知識が深まれば、それに伴って交際も広くなる。
交際が広くなれば、人間の心も広く穏やかになる。
国際法の効力が一般化すれば、軽率に戦争を起こす国もなくなる。
経済学の議論が高まれば、政治、経済の仕組みも変化する。
学校制度、書物の体裁、政府の方針、議会での政策の決定、みな改まり、水準が向上する。
その進歩は計り知ることもできない。

わが日本の文明も、そのはじめは朝鮮・支那より来たり、爾来(じらい)わが国人の力にて切磋琢磨(せっさたくま)、もって近世の有様に至り、洋学のごときはその源(みなもと)遠く宝暦年間にあり〔『蘭学事始』という版本を見るべし〕。
我が国の文明は、そのはじめは朝鮮、中国にその源を発し、それが先人たちの力で磨かれ、達して近世に至った。
洋学においては、宝暦年間(1751-1764)に渡来した。
『蘭学事始』(らんがくことはじめ)という本をみればわかる。

輓近(ばんきん)外国の交際始まりしより、西洋の説ようやく世上に行なわれ、洋学を教うる者あり、洋書を訳する者あり、天下の人心さらに方向を変じて、これがため政府をも改め、諸藩をも廃して、今日の勢いになり、重ねて文明の端を開きしも、これまた古人の遺物、先進の賜と言うべし。
最近になって外国との交際が始まってから、西洋の学問、思想が次第に知られるようになり、洋学を教える者、洋書を翻訳する者も増えた。
このため、世の中の考え方も大きく変化し、政府が変わり幕藩制度が廃止され、現在の時勢となった。
今、文明開化の発端がようやく開けたのは、こうした先人たちの遺産、恩恵に浴しているからである。

今より数十の星霜を経て後の文明の世に至れば、また後人をしてわが輩の徳沢(とくたく)を仰ぐこと、今わが輩が古人を崇(とうと)むがごとくならしめざるべからず。
この先人に対する感謝の念を、数十年後の社会の人々から、同じように我々も受けたいものである。

かつ事をなすには時に便不便あり、いやしくも時を得ざれば有力の人物もその力を逞(たくま)しゅうすること能(あた)わず。
ところで、事を行うには、時機というものがある。
機会に恵まれなければ、有能な者もその力を発揮できない。

前にも言えるごとく、西洋の説ようやく行なわれてついに旧政府を倒し諸藩を廃したるは、ただこれを戦争の変動とみなすべからず。
前述の通り、西洋の学問、思想が行き渡り、旧政府が倒れ幕制が廃止されたことを、単に維新の戦争による世の変化と考えるべきではない。

文明の功能はわずかに一場の戦争をもってやむべきものにあらず。
文明の力は、一度や二度の戦争があったからといって、さしたる影響を受けるものではない。

ゆえにこの変動は戦争の変動にあらず、文明に促(うなが)されたる人心の変動なれば、かの戦争の変動はすでに七年前にやみてその跡なしといえども、人心の変動は今なお依然たり。
よって、これは文明の力に動かされた大衆の精神の変化なのである。
かの戦争(戊辰戦争)は7年前に終わり、現在、その後遺症など全くない。
しかし、大衆の精神の変化は今も依然として続いているではないか。

学問の道を首唱して天下の人心を導き、推してこれを高尚の域に進ましむるには、とくに今の時をもって好機会とし、この機会に逢う者はすなわち今の学者なれば、学者世のために勉強せざるべからず。
学問に進む絶好の機会は、今をおいてない。
大衆の精神を高い水準に導き、学問の魅力を教えるためには、まず諸君が、なによりも学業に励まねばならないのである。

以下十編につづく。

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十編
(1874年(明治7年)6月)

前編のつづき、中津の旧友に贈る

然りといえども、他国の物を仰いで自国の用を便ずるは、もとより永久の計にあらず、ただこれを一時の供給とみなして強いてみずから慰むるのみなれども、その一時なるものはいずれの時に終わるべきや。
しかし、外国の文物を崇拝し、これを長い間利用し続けるべきではない。
今はこれを一時の供給だと思い、強いて慰めるしかないが、この状態はいずれ終わらせなければならない。

ただ、今の学者の成業を待ち、この学者をして自国の用を便ぜしむるのほか、さらに手段あるべからず。
それには、学生諸君が学問を修め、日本国の為に活躍してくれる日を待つしかないのである。

農となり、商となり、学者となり、官員となり、書を著わし、新聞紙を書き、法律を講じ、芸術を学び、工業も起こすべし、議院も開くべし、百般の事業行なうべからざるものなし。
農業にも商業にも従事できるし、学者にも役人にもなることができる。
本を書き、法律を講義し、芸術を研究し、産業を興し、代議士になることも努力次第だ。

しかもこの事業を成し得て、国中の兄弟(けいてい)相鬩(せめ)ぐにあらず、その智恵の鋒を争うの相手は外国人なり、この智戦に利あればすなわちわが国の地位を高くすべし。
しかもこうした活動によって国内に争いが起こるわけではない。
その智恵の優劣を争う相手は外国人である。
この智恵と智恵の戦いに勝てば、日本の地位は高くなるだろう。

これに敗すればわが地位を落とすべし。
もし負ければ、その立場は低くなるだろう。

その望み大にして期するところ明らかなりと言うべし。
だから我々の望みの大きさとその目的は明白であろう。

もとより天下の事を現に施行するには前後緩急あるべしといえども、到底この国に欠くべからざるの事業は、人々の所長によりて今より研究せざるべからず。
国家の発展の為にする事業は、その達成に時間もかかるはずだが、ともかく、日本国の為に緊急な事業は、国民それぞれの立場で、今すぐに研究しなければならないのである。

いやしくも処世の義務を知る者は、この時に当たりてこの事情を傍観するの理なし。
学生として国民の義務を自覚する者は、国家の実情を傍観していてよいわけがない。

学者勉めざるべからず。
学生たる以上、学問に励むしかないのである。

これによりて考うれば、今の学者たる者はけっして尋常学校の教育をもって満足すべからず、その志を高遠にして学術の真面目に達し、不覊独立もって他人に依頼せず、あるいは同志の朋友なくば一人にてこの日本国を維持するの気力を養い、もって世のために尽くさざるべからず。
このように考えれば、今日の学生は、決して、通り一遍の学校教育だけで満足するべきではない。
目標を高く遠くに置き、学術の本質を極め、真の独立の立場を築くべきである。
目標を共にする友がいないなら、自分一人でも日本国を維持する気概を持ち、社会のために尽力せねばならない。

余輩もとより和漢の古学者流が人を治むるを知りてみずから修むるを知らざる者を好まず。
もともと私は、和漢の古学者たちを好まない。
彼らは、人民を支配する方法だけを知り、自分を修養する方法を知らないからである。

これを好まざればこそ、この書の初編より人民同権の説を主張し、人々みずからその責めに任じてみずからその力に食(は)むの大切なるを論じたれども、この自力に食むの一事にてはいまだわが学問の趣意を終われりとするに足らず。
だからこそ私は、本書初編から人民同権の思想を主張し、人々が自分の責任と力で生計を営むことの大切さを述べてきた。
だが、自分で自分の生計を立てただけでは、私が言おうとする学問の目的を理解してもらえたとは思えない。

しかるに聞く、近日中律の旧友、学問につく者のうち、まれには学業いまだ半ばならずして早くすでに生計の道を求むる人ありと。
しかし近頃、故郷中津の旧友のうち、学業半ばにして早くも生活の手段を求める人がしばしばいると聞いた。

生計もとより軽んずべからず。
生活はもちろん軽んじるべきではない。

あるいはその人の才に長短もあることなれば、後来の方向を定むるはまことに可なりといえども、もしこの風を互いに相倣(あいなら)い、ただ生計をこれ争うの勢いに至らば、俊英の少年はその実を未熟に残(そこな)うの恐れなきにあらず。
人には才能の有無もある。
だから場合によっては、人生の将来の方向を今から決めるのも当然だろう。
しかしこの風潮が行き渡り、生活と収入のみを目的とするようになったら、才能ある青年までが能力を発揮できないまま終わってしまう恐れもある。

本人のためにも悲しむべし、天下のためにも惜しむべし。
それは本人のためにも悲しむべきことだし、世の中のためにも悲しむべきことである。

かつ生計難しといえども、よく一家の世帯を計れば、早く一時に銭を取りこれを費やして小安を買わんより、力を労して倹約を守り大成の時を待つに若(し)かず。
生活が苦しいといっても、じっくりその経済について考えてみれば、少しの金を得て小さな安定を得るよりも、時機を待ち、努力と倹約ののちに大きな成功を収めるほうが、より得するのではなかろうか。

学問に入らば大いに学問すべし。
学問を志した以上、大いに学問に励むべきだ。

農たらば大農となれ、商たらば大商となれ。
農業に就くなら豪農に、商業に入るなら大商人になりたまえ。

学者小安に安んずるなかれ。
学生は小さな安定に満足してはならない。

粗衣粗食、寒暑を憚(はばか)らず、米も搗(つ)くべし、薪も割るべし。
粗衣粗食、寒暑に耐え、米をつき、薪を割りなさい。

学問は米を搗きながらもできるものなり。
学問は米をつきながらでもできるのである。

人間の食物は西洋料理に限らず、麦飯を食らい味噌汁を啜(すす)り、もって文明の事を学ぶべきなり。
人間の食べ物は西洋料理だけではない。
麦飯を食らい、味噌汁をすすっていても、西洋文明は学べるのである。

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十一編
(1874年(明治7年)7月)

名分をもって偽君子を生ずるの論

そもそもこの名分のよって起こるところを案ずるに、その形は強大の力をもって小弱を制するの義に相違なしといえども、その本意は必ずしも悪念より生じたるにあらず。
名分とは、強い権力を持つ者が弱者を支配する仕組みには違いないが、権力者がいつも悪意だけで弱者を支配しているわけではない。

畢竟(ひっきょう)世の中の人をば悉皆(しっかい)愚にして善なるものと思い、これを救い、これを導き、これを教え、これを助け、ひたすら目上の人の命(めい)に従いて、かりそめにも自分の了簡を出ださしめず、目上の人はたいてい自分に覚えたる手心にて、よきように取り計らい、一国の政事も、一村の支配も、店の始末も、家の世帯も、上下心を一にして、あたかも世の中の人間交際を親子の間柄のごとくになさんとする趣意なり。
権力者は、世の大衆はみな無智で、かつ善良だと考える。
だからこそ大衆を救い、指導し、教育し、保護し、ひたすら目上の指示に従わせ、大衆につまらぬ意見などはさせず、目上の考えでほどよく治めようというのである。
国の政治も、村の支配も、店の経営も、家庭の生活も、すべて目上と目下とが心をひとつにし、親子の関係のように事をすまそうというわけだ。

世の名分を主張する人はこの親子の交際をそのまま人間の交際に写し取らんとする考えにて、ずいぶん面白き工夫のようなれども、ここに大なる差しつかえあり。
地位、身分の差を主張する者は、この親子の関係をそのまま社会の人間関係にあてはめようとする。
面白い発想ではあるが、ここには大きな問題がある。

親子の交際はただ智力の熟したる実の父母と十歳ばかりの実の子供との間に行なわるべきのみ。
それは、親子の関係というのは、知能の成熟した実の父母と、幼い実の子との間でしか成り立たないということである。

他人の子供に対してはもとより叶(かな)い難し。
他人の子供に対してはもちろん成り立たない。

たとい実の子供にても、もはや二十歳以上に至ればしだいにその趣を改めざるを得ず。
たとえ実の子供でも、二十歳を過ぎればその関係も変わってくる。

いわんや年すでに長じて大人(おとな)となりたる他人と他人との間においてをや。
言うまでもなく、成人した他人同士ではなおさらである。

とてもこの流儀にて交際の行なわるべき理なし。
このやり方は、とてもではないが理屈に合わない。

いわゆる願うべくして行なわれ難きものとはこのことなり。
理想を心に描くことはできても実行するのは難しいとは、このことである。

されども、たとい実には行なわれ難きことにても、これを行のうてきわめて都合よからんと心に想像するものは、その想像を実に施したく思うもまた人情の常にて、すなわちこれ世に名分なるものの起こりて専制の行なわるる所以なり。
けれども、たとえ実現しにくいことでも、実現した場合の理想的な姿を想像すると、その想像を実行に移してみたくなるのが人情だ。
ここに地位、身分の差が生まれる原因があり、目下に対する勝手気ままな専制政治が生まれる原因がある。

ゆえにいわく、名分の本(もと)は悪念より生じたるにあらず、想像によりてしいて造りたるものなり。
よって、地位、身分の差が生まれる原因は、人間の悪意から生まれるのではなく、人為的な空想からつくりだされたものなのである。

かく人民を子供のごとく、牛羊のごとく取り扱うといえども、前段にも言えるとおり、そのはじめの本意は必ずしも悪念にあらず、かの実の父母が実の子供を養うがごとき趣向にて、第一番に国君を聖明なるものと定め、賢良方正の士を挙げてこれを輔(たす)け、一片の私心なく半点の我欲なく、清きこと水のごとく、直(なお)きこと矢のごとく、己が心を推して人に及ぼし、民を撫(ぶ)するに情愛を主とし、饑饉(ききん)には米を給し、火事には銭を与え、扶助救育して衣食住の安楽を得せしめ、上(かみ)の徳化は南風の薫ずるがごとく、民のこれに従うは草の靡(なび)くがごとく、その柔らかなるは綿のごとく、その無心なるは木石のごとく、上下合体ともに太平を謡(うた)わんとするの目論見(もくろみ)ならん。
ただ、大衆を子供のように、牛、羊のように扱うとはいっても、そこに悪意がないことは前述の通りである。
つまり、実の父母が実の子を養うやり方をあてはめようというのである。
そこでまず、君主を徳のある優れた人物と定める。
次に、正しく賢い臣が君主を助ける。
彼らは私利私欲に走らず、水のごとく清く、矢のごとくまっすぐな心を大衆にも押し広めていく。
そして深い愛情をもって大衆をいつくしみ、飢饉になれば米を分け与え、火事があれば金を与え、常に大衆を助け育んで、その衣食住の安心をはかろうというのである。
こうして君主の恩徳が民に降り注ぐこと南風の薫るごとく、民が君主に従うこと風になびく草のごとくである。
大衆は綿のごとく従順、木や石のごとく無心である。
目上と目下とが一体となり、太平の世の素晴らしさを心ゆくまで歌いたたえようというわけだ。

実に極楽の有様を模写したるがごとし。
まるでユートピアの様子を模写したかのようだ。

されどもよく事実を考うれば、政府と人民とはもと骨肉の縁あるにあらず、実に他人の付合いなり。
けれども現実を直視すれば、そもそも政府と大衆との間に血縁のつながりなどありはしない。
実際は赤の他人の関係なのである。

他人と他人との付合いには情実を用ゆべからず、必ず規則約束なるものを作り、互いにこれを守りて厘毛の差を争い、双方ともにかえって円(まる)く治まるものにて、これすなわち国法の起こりし所以なり。
他人同士の関係が私的な情愛によって成り立つはずがない。
その関係は、お互いの規則や約束を取り決め、その契約のあれこれを争いながら、ようやく治まっていくものである。
国の法律もまた、この考えのうえに成立している。

かつ右のごとく、聖明の君と賢良の士と柔順なる民とその注文はあれども、いずれの学校に入れば、かく無疵(むきず)なる聖賢を造り出だすべきや、なんらの教育を施せばかく結構なる民を得べきや、唐人も周の世以来しきりにここに心配せしことならんが、今日まで一度も注文どおりに治まりたる時はなく、とどのつまりは今のとおりに外国人に押し付けられたるにあらずや。
さらには、徳の高い君主、行い正しい賢臣、従順な国民という理想はあっても、ではどのような学校に入れたらこのような完璧な聖人賢者を生み出せるというのか。
どのような教育をほどこせばこのような結構ずくめの国民が育つというのか。
中国人も、周の時代からこのことに頭を悩ませ続けてきた。
だがこれまでに、このような理想通りに治まったことが、ただの一度でもあっただろうか。
結局のところ、外国人に支配されるはめになったではないか。

しかるにこの意味を知らずして、きかぬ薬を再三飲むがごとく、小刀細工の仁政を用い、神ならぬ身の聖賢が、その仁政に無理を調合してしいて御恩を蒙らしめんとし、御恩は変じて迷惑となり、仁政は化して苛法となり、なおも太平を謡わんとするか。
それなのに効かない薬を何度も飲むように、小手先だけの仁政(思いやりのある政治)を繰り返し、神ではない権力者が「無理」という薬を調合して、君主の恩寵を示そうとする。
それは大衆にとって迷惑となり、仁政はいつの日か苛酷な政治となる。
それでもまだ君主は太平の世とやらを歌い称えようというのか。

謡わんと欲せばひとり謡いて可なり。
これを和する者はなかるべし。
その目論見こそ迂遠なれ。
歌いたければ独りで勝手に歌うがいい。
こんなものなど、何の役にも立ちはしないのだ。

実に隣ながらも捧腹(ほうふく)に堪えざる次第なり。
他国のこととはいえ、腹を抱えて笑わざるをえない。

この風儀はひとり政府のみに限らず、商家にも、学塾にも、宮にも、寺にも行なわれざるところなし。
地位、身分の差によるこのような風潮は、なにも政府に限ったことではない。
商屋でも、学問の私塾でも、神社や寺でも、いたるところに見受けられる。

右のごとく上下貴賤の名分を正し、ただその名のみを主張して専制の権を行なわんとするの原因よりして、その毒の吹き出すところは人間に流行する欺詐(ぎさ)術策の容体なり。
このように、地位身分に伴う権限だけを主張して、自分の一存で事を運ぼうとする風潮が世の中にはびこっている。
今日の社会に謀(はかりごと)や偽りという流行を招いたのも、これが原因である。

この病に罹(かか)る者を偽君子と名づく。
この流行の病にかかった者を偽君子という。

大名の家来によき役儀を勤むる者あれば、その家に銭のできるは何ゆえぞ。
定まりたる家禄と定まりたる役料にて一銭の余財も入るべき理なし。
(例えば、)大名の家来が高い位の役職に就くと、決められた給金や役職手当以外に金が入るのはどういうわけだ。

しかるに出入(しゅつにゅう)差引きして余りあるははなはだ怪しむべし。
いわゆる役得にもせよ、賄賂(わいろ)にもせよ、旦那の物をせしめたるに相違はあらず。
正当な収入以上に豪遊しているところをみると、そこには腐臭がする。
いわゆる役得にせよ、賄賂にせよ、主君の金を盗んでいることと変わりはない。

そのもっともいちじるしきものを挙げて言えば、普請奉行が大工に割前(わりまえ)を促(うなが)し、会計の役人が出入りの町人より付け届けを取るがごときは、三百諸侯の家にほとんど定式(じょうしき)の法のごとし。
普請奉行(ふしんぶぎょう)が大工に謝礼金を催促したり、会計担当の役人が出入りの町人から付け届けを取ることなど、大名家のあいだでは当然のことのようだ。

金箔付きの偽君子と言うべし。
このような者どもこそ偽君子というのである。

あるいはまれに正直なる役人ありて賄賂(わいろ)の沙汰も聞こえざれば、前代未聞の名臣とて一藩中の評判なれども、その実はわずかに銭を盗まざるのみ。
あるいは、まれに賄賂の噂ひとつない正直な役人がいると、前代未聞の優れた武士として評判になることがある。
だが実際は、ただ人から金を盗まなかったというだけに過ぎない。

ただ偽君子の群集するその中に十人並みの人が雑(まじ)るゆえ、格別に目立つまでのことなり。
ただ偽君子の群れに正常な人間が交じるから、特別に目立ったというだけのことなのだ。

畢竟この偽君子の多きもその本(もと)を尋ぬれば古人の妄想にて、世の人民をばみな結構人にして御しやすきものと思い込み、その弊ついに専制抑圧に至り、詰まるところは飼犬に手を噛(か)まるるものなり。
この偽君子が数多く存在する原因は、元を正せば、昔の人々が世の大衆を無智で善良で扱いやすいものと思い込んだ妄想によるものである。
その弊害がついには独断的な振る舞いをもたらし、目下に対する圧制を生んだ。
そして飼い犬(目下)に手を噛まれたというわけだ。

返す返すも世の中に頼みなきものは名分なり。
毒を流すの大なるものは専制抑圧なり。
恐るべきにあらずや。
どう考えても、地位、身分の差からくる独りよがりの振る舞いこそ無責任なものはない。
そしてそこから生まれる専制政治という害悪は、恐るべきものである。

今、日本の人口を三千万となし義士の数は一万四千百人なるべし。
この人数にて日本国を保護するに足るべきや。
いま日本の人口を3千万人とすると、義士の数は1万4千人ほどか。
たったこの人数で、日本国をどう守るというのだ。

右の議論によれば名分は丸つぶれの話なれども、念のためここに一言を足さん。
こうなると地位、身分など何の意味もなさないことになる。
だが、念のために一言つけ加えておく。

名分とは虚飾の名目を言うなり。
地位、身分の差とは、虚構の名目である。

虚名とあれば上下貴賤悉皆(しっかい)無用のものなれども、この虚飾の名目と実の職分とを入れ替えにして、職分をさえ守ればこの名分も差しつかえあることなし。
虚構ということは、あらゆる階層において、無用のものということになる。
だが、職務というものは実体があり、大切なものである。
この職務を確実に果たすなら、地位、身分があっても問題ない。

しかるに半解半知の飛び揚がりものが、名分は無用と聞きて、早くすでにその職分を忘れ、人民の地位にいて政府の法を破り、政府の命をもって人民の産業に手を出だし、兵隊が政(まつりごと)を議してみずから師(いくさ)を起こし、文官が腕の力に負けて武官の指図に任ずる等のことあらば、これこそ国の大乱ならん。
にもかかわらず、未熟な者が地位、身分の差などはないと考え、大衆の立場で国法を破ったり、役人が民間の産業に介入したりしたら大事である。
ましてや、軍人が勝手に政治に口をはさみ戦争を起こしたら、それこそ国中が大混乱におちいってしまう。

自主自由のなま噛(かじ)りにて無政無法の騒動なるべし。
それは自主自由の意味をはきちがえた、無政府、無法の暴動である。

名分と職分とは文字こそ相似たれ、その趣意はまったく別物なり。
名分(地位、身分の差)と職分(職務、責任)は、似た字であっても、内容はまったく別物である。

学者これを誤り認むることなかれ。
学生諸君は、これらの本質的な意味を誤ってはならない。

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>> 福沢諭吉 学問のすすめ
http://www.aozora.gr.jp/cards/000296/files/47061_29420.html
>> 福沢諭吉 (著)、檜谷昭彦 (翻訳)/『現代語訳 学問のすすめ』/三笠書房、2010
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十二編
(1874年(明治7年)12月)

演説の法を勧むるの説

演説とは英語にてスピイチと言い、大勢の人を会して説を述べ、席上にてわが思うところを人に伝うるの法なり。
演説とは、英語で speech といい、集会の席で自分の意見を述べ、人に聞いてもらうことをいう。

わが国には古(いにしえ)よりその法あるを聞かず、寺院の説法などはまずこの類なるべし。
我が国では、昔の説教、坊さんが信者に仏法の尊さを説いた説法などが似たものと考えられる。

西洋諸国にては演説の法もっとも盛んにして、政府の議院、学者の集会、商人の会社、市民の寄合(よりあ)いより、冠婚葬祭、開業・開店等の細事に至るまでも、わずかに十数名の人を会することあれば、必ずその会につき、あるいは会したる趣意を述べ、あるいは人々平生(へいぜい)の持論を吐き、あるいは即席の思い付きを説きて、衆客に披露するの風なり。
西洋ではこの演説が盛んであり、議会、学会ばかりか、商工会議所、市民集会、結婚式やその他の集まりでも、必ず誰かが演説をする習慣がある。
その内容は、集会の趣旨、普段から考えている意見、そのときの感想などを聞き手に語り聞かせるのが一般的である。

演説をもって事を述ぶれば、その事柄の大切なると否とはしばらく擱(お)き、ただ口上をもって述ぶるの際におのずから味を生ずるものなり。
演説の特徴は、意見を口頭で話すことにある。

譬えば文章に記(しる)せばさまで意味なきことにても、言葉をもって述ぶればこれを了解すること易(やす)くして人を感ぜしむるものあり。
例えば、文章ではさほど意味のないことも、話し言葉で直接伝えるから、その理解が速く、聞き手も感動する。

古今に名高き名詩名歌というものもこの類にて、この詩歌を尋常の文に訳すれば絶えておもしろき味もなきがごとくなれども、詩歌の法に従いてその体裁を備うれば、限りなき風致を生じて衆心を感動せしむべし。
昔から有名な詩や和歌など、文章にしてしまうと実につまらなくなる。
声に乗せ、朗々と歌ってこそ、そこに詩歌の持つ魅力が生まれ、人に感銘を与えるのだ。

ゆえに一人の意を衆人に伝うるの速やかなると否とは、そのこれを伝うる方法に関することはなはだ大なり。
よって、自分の意見を多くの人に伝えるためには、話す速度、抑揚のつけかたなどが、極めて大切になるのである。

学問はただ読書の一科にあらずとのことは、すでに人の知るところなれば今これを論弁するに及ばず。
すでに諸君も知っている通り、学問はただ本を読むだけで事足りるものではない。

学問の要は活用にあるのみ。
学問の本質は、学問を自分がどう活用できるかにかかっている。

活用なき学問は無学に等し。
現実社会に活用できない学問をしていては、無学と言われても当然である。

ゆえに学問の本趣意は読書のみにあらずして、精神の働きにあり。
つまり、学問の真の本質は、ただ読書するだけにあるのではなく、精神の働きにあるのである。

この働きを活用して実地に施すにはさまざまの工夫(くふう)なかるべからず。
この精神の働きを活き活きと現実生活に応用するには、様々な工夫が必要だ。

オブセルウェーションとは事物を視察することなり。
observation とは、物事を観察することである。

リーゾニングとは事物の道理を推究して自分の説を付くることなり。
reasoning とは、物事の道理を推測して、自分の考えをつくることである。

この二ヵ条にてはもとよりいまだ学問の方便を尽くしたりと言うべからず。
(だが、)この2つの工夫だけでは学問研究の方法として完全ではない。

なおこのほかに書を読まざるべからず、書を著わさざるべからず、人と談話せざるべからず、人に向かいて言を述べざるべからず、この諸件の術を用い尽くしてはじめて学問を勉強する人と言うべし。
本も読まなければならないし、著作もしなければならない。
人に意見を述べ、議論(談話)もしなければならない。
ありとあらゆる手段をつくしてこそ、学問研究をしているといえるのだ。

すなわち視察、推究、読書はもって智見を集め、談話はもって智見を交易し、著書、演説はもって智見を散ずるの術なり。
すなわち、観察、推論、読書は知識を蓄積する手段、議論は知識交換の手段、そして著作、演説は知識を広める手段なのである。

然りしこうしてこの諸術のうちに、あるいは一人の私(わたくし)をもって能(よ)くすべきものありといえども、談話と演説とに至りては必ずしも人とともにせざるを得ず。
これらには独りでもできるものもあるが、議論と演説はどうしても相手が必要となる。

演説会の要用なることもって知るべきなり。
このようにして、演説会が必要となるのだ。

人間の事には内外両様の別ありて、両(ふたつ)ながらこれを勉めざるべからず。
人間の行為、活動は、内と外、2つの方向に向かうものだから、そのどちらにも努めなければならない。

今の学者は内の一方に身を委(まか)して、外の務めを知らざる者多し。
これを思わざるべからず。
現在の多くの学者は、自分の内部のみに活動を限定して、外の世界に向けた努力を怠っている。
これには反省をうながしたい。

人の品行は高尚ならざるべからざるの論

人の見識品行は、微妙なる理を談ずるのみにて高尚なるべきにあらず。
人の見識、行動は、高踏難解な理論を語るだけで高潔なものになるわけではない。

また人の見識、品行はただ聞見の博(ひろ)きのみにて高尚なるべきにあらず。
また、人間の見識、行動は、単に知識や見聞が豊富だというだけで、高尚なものになるわけではない。

しからばすなわち、人の見識を高尚にして、その品行を提起するの法いかがすべきや。
では、見識を高くし、それが行動に反映するにはどうすればよいか。

その要訣は事物の有様を比較して上流に向かい、みずから満足することなきの一事にあり。
その秘訣は、物事のありさまを比較し考えて、より高い段階を目指し、決して自己満足しないことにつきる。

ただし有様を比較するとはただ一事一物を比較するにあらず、この一体の有様と、かの一体の有様とを並べて、双方の得失を残らず察せざるべからず。
ただし、物事のありさまを比較するとは、単にひとつのありさまを比べるということではない。
ありとあらゆる物事を並べ、それぞれの長所、短所をあますことなく検討することである。

謹慎勉強は人類の常なり、これを賞するに足らず、人生の約束は別にまた高きものなかるべからず。
懸命に勉強することは人間として当然のことであって、これをことさら誉めるわけにはいかない。
人生における人間の使命は、さらなる高みにあるはずだからである。

広く古今の人物を計(かぞ)え、誰に比較して誰の功業に等しきものをなさばこれに満足すべきや。
広く古今を見渡して、いったい誰のどんな業績に匹敵するものを成し遂げれば満足できるのだろうか。

必ず上流の人物に向かわざるべからず。
(そのように考えれば、)人は高みにいる一級の人物を目指すことになる。

あるいは我に一得あるも彼に二得あるときは、我はその一得に安んずるの理なし。
あるいは、自分の長所よりもより優れた長所をもつ人を見れば、自己満足に浸ることなどできはしないだろう。

いわんや後進は先進に優(まさ)るべき約束なれば、古(いにしえ)を空しゅうして比較すべき人物なきにおいてをや。
ましてや、後輩が先輩を追い越そうとして勉強するのは当然なのだから、現在の自分に満足するわけにはいかないのである。

しかるに今わずかに謹慎勉強の一事をもって人類生涯の事となすべきや。
思わざるのはなはだしきものなり。
だとしたら、ただ勉強していることだけを生涯の仕事とすべきだろうか。
それでは志が低いと言わざるをえない。

譬えばインドの国体旧ならざるにあらず、その文物の開けたるは西洋紀元の前数千年にありて、理論の精密にして玄妙なるは、おそらくは今の西洋諸国の理学に比して恥ずるなきもの多かるべし。
例えば、インドは国家として歴史が浅いわけではない。
その文明の起源は紀元前数千年までさかのぼり、その思想の水準は、西洋の思想と比べて決して劣ってはいない。

また在昔トルコの政府も、威権もっとも強盛にして、礼楽征伐の法、斉整ならざるはなし。
また、往年のトルコ政府も強大な国力を誇り、治安、軍備にわたり見事に整っている。

君長賢明ならざるにあらず、廷臣方正ならざるにあらず。
王侯は賢明であり、忠節を尽くす家臣がいる。

人口の衆多なること兵士の武勇なること近国に比類なくして、一時はその名誉を四方に燿(かがや)かしたることあり。
豊かな人口を有し、兵士の勇敢さは比類なきものに思える。

ゆえにインドとトルコとを評すれば、甲は有名の文国にして、乙は武勇の大国と言わざるを得ず。
よって、インドは文化国であり、トルコは軍事国といえる。

しかるに方今この二大国の有様を見るに、インドはすでに英国の所領に帰してその人民は英政府の奴隷に異ならず、今のインド人の業はただ阿片を作りて支那人を毒殺し、ひとり英商をしてその間に毒薬売買の利を得せしむるのみ。
ところが現在の2カ国の現状をみると、インドはすでに英国の支配下にあり、大衆は奴隷のごとくアヘンの栽培のみに明け暮れている。
その毒薬は中国人を殺し、アヘン貿易の暴利は英国商人がむさぼっている。

トルコの政府も名は独立と言うといえども、商売の権は英仏の人に占められ、自由貿易の功徳(くどく)をもって国の物産は日に衰微し、機(はた)を織る者もなく、器械を製する者もなく、額に汗して土地を耕すか、または手を袖にしていたずらに日月を消するのみにて、いっさいの製作品は英仏の輸入を仰ぎ、また国の経済を治むるに由なく、さすがに武勇なる兵士も貧乏に制せられて用をなさずと言う。
一方トルコ政府は、独立とは名ばかりで、商取引の権利は自由貿易の名のもとに英仏に独占された。
産業は日ごとに衰え、機(はた)を織る者も機械を製造する者もなく、ただ土地を耕すか、何もすることなくむなしく日々を過ごすだけである。
一切の工業製品は英仏からの輸入に頼り、国家財政は破綻し、かつての勇士たちも、貧乏のために活躍できる場を失っているという。

右のごとく、インドの文も、トルコの武も、かつてその国の文明に益せざるはなんぞや。
このようにして、インドの文化もトルコの武力も、その国の文明発展に寄与できなかったのはなぜだろうか。

その人民の所見わずかに一国内にとどまり、自国の有様に満足し、その有様の一部分をもって他国に比較し、その間に優劣なきを見てこれに欺かれ、議論もここに止まり、徒党もここに止まり、勝敗栄辱ともに他の有様の全体を目的とすることを知らずして、万民太平を謡うか、または兄弟(けいてい)墻(かき)に鬩(せめ)ぐのその間に、商売の権威に圧しられて国を失うたるものなり。
それは、大衆の考えが自国の中だけに留まり、その状態に満足し、外国と比較せず、外国の優れたところを学ばなかったからである。
同時に、大衆が平和になれ、内輪げんかを繰り返し、国際的な経済力に負け、いつのまにか国力をなくしたからである。

洋商の向かうところはアジヤに敵なし。
恐れざるべからず。
この西洋商人らの経済侵略は、もはやアジアに敵なしである。
恐るべきことである。

もしこの勁敵(けいてき)を恐れて、兼ねてまたその国の文明を慕うことあらば、よく内外の有様を比較して勉むるところなかるべからず。
この西洋商人の強大さに恐れると同時に、西洋文明からも学ばなければならない。
とすれば、内外のありさまの比較、検討こそ、いま我々が最も学ばなければならないことである。

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>> 福沢諭吉 (著)、檜谷昭彦 (翻訳)/『現代語訳 学問のすすめ』/三笠書房、2010
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十三編
(1874年(明治7年)12月)

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十四編
(1875年(明治8年)3月)

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十五編
(1876年(明治9年)7月)

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十六編
(1876年(明治9年)8月)

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十七編
(1876年(明治9年)11月)

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◆◆◆
福澤諭吉について
>> 福澤諭吉 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89
>> 福澤諭吉年譜:[慶應義塾]
http://www.keio.ac.jp/ja/contents/fukuzawa_history/
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2011年11月1日 (火) 00:54

福澤諭吉(ふくざわ ゆきち/天保5年12月12日(1835年1月10日)- 1901年(明治34年)2月3日)は、日本の武士(中津藩士のち旗本)、19世紀後期の学者、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者、新聞『時事新報』の創刊・発行者。

慶應義塾の創設者であり、専修学校(現・専修大学)、商法講習所(現・一橋大学)、伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)や土筆ヶ岡養生園(現・北里大学 北里研究所病院)の創設にも尽力した。
他に東京学士会院(現・日本学士院)初代会長を務めた。

●●
経歴
出生から中津帰藩

天保5年12月12日(1835年1月10日)、大坂堂島浜(現・大阪府大阪市福島区福島1丁目、通称・ほたるまち)にあった豊前国中津藩の蔵屋敷で下級藩士・福澤百助、於順の次男(末っ子)として生まれる。

父・百助は、鴻池や加島屋などの大坂の商人を相手に藩の借財を扱う職にあり、藩儒・野本雪巌(のもと せつがん)や帆足万里(ほあし ばんり)に学び、菅茶山(かん ちゃざん=さざん=)、伊藤東涯(いとう とうがい)などの儒教に通じた学者でもあった。

百助の後輩には江州水口藩・藩儒の中村栗園(なかむら りつえん)がおり、深い親交があった栗園は百助の死後も諭吉の面倒を見ていた。

百助は中小姓格(厩方)の役人となり、大坂での勘定方勤番は十数年に及んだが、身分格差の激しい中津藩では名をなすこともできずにこの世を去った。
そのため息子である諭吉は後に「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」(『福翁自伝』)とすら述べており、自身も封建制度には疑問を感じていた。

世間のしきたりや、信仰、迷信にも無頓着で、「子供ながらも精神はまことにカラリとしたものでした。」(『福翁自伝』)と述べる。

兄・三之助は父に似た純粋な漢学者で、「死に至るまで孝悌忠信」の一言であったという。

なお、母兄姉と一緒に暮してはいたが、幼時から叔父・中村術平の養子になり中村姓を名乗っていた。
のち、福澤の実家に復する。

体格が良く、当時の日本人としてはかなり大柄な人物であった。
(身長は173cm、体重は70.25kg、肺活量は5.159ℓ)。

天保6年(1836年)、1歳6か月のとき父の死去により中村栗園に見送られながら大坂から帰藩し、豊前国中津(現・大分県中津市)で過ごす。

親兄弟や当時の一般的な武家の子弟と異なり、孝悌忠信(こうていちゅうしん)や神仏を敬うという価値観はもっていなかった。
お札を踏んでみたり、神社で悪戯をしてみたりと、悪童まがいの溌剌とした子供だったようだが、刀剣細工や畳の表変え、障子の貼り変えをこなすなど内職に長けた子供であった。

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5歳頃から藩士・服部五郎兵衛(はっとり ごろうべえ)に漢学と一刀流の手解きを受けはじめる。
8歳になると、兄・三之助も師事した野本真城(のもと ましろ)、白石照山(しらいし しょうざん)の私塾、晩香堂(ばんこうどう)へ通い始める。

初め読書嫌いであったが、14、5歳になってから近所で自分だけ勉強をしないというのも世間体が悪いということで勉学を始める。
しかし始めてみるとすぐに実力をつけ、以後様々な漢書を読みあさり、漢籍を修める。
『論語』、『孟子』、『詩経』、『書経』はもちろん、『史記』、『左伝』、『老子』、『荘子』に及び、特に『左伝』は得意で十五巻を十一度も読み返して面白いところは暗記したという。
この頃には先輩を凌いで「漢学者の前座ぐらい(自伝)」は勤まるようになっていた。

●●

福澤の学問的・思想的源流に当たるのは、亀井南冥(亀井南冥。1743-1814)や荻生徂徠(おぎゅう そらい。1666-1728)であり、諭吉の師・白石照山は、陽明学や朱子学も修めていたが、亀井学の思想に重きを置いていた。
したがって、福澤の学問の基本には儒学が根ざしており、その学統は白石照山、野本百厳(のもと ひゃくがん)、帆足万里を経て、祖父・兵左衛門(ひょうざえもん)も門を叩いた三浦梅園(みうら ばいえん。1723-1789)にまで遡ることが出来る。
のちに蘭学の道を経て思想家となる過程の中にも、この学統が原点にある。

そのかたわら、立身新流の居合術を習得し、免許皆伝となる。

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長崎遊学

安政元年(1854年)、黒船が来襲したことにより中津藩でも西洋砲術を学ぶ必要が起きたことで、19歳で長崎へ遊学して蘭学を学ぶ。
黒船来航により砲術の需要が高まり、オランダ流砲術を学ぶ際にはオランダ語の原典を読まなければならないが、それを読んでみる気はないかと兄から誘われたのがきっかけであった。
長崎市の光永寺に寄宿し、現在は石碑が残されている。

長崎奉行配下の役人で砲術家の山本物次郎(やまもと ものじろう)宅に居候し、オランダ通詞(通訳などを仕事とする長崎の役人)のもとへ通ってオランダ語を学んだ。
山本家には蛮社の獄(ばんしゃのごく。1839)の際に高島秋帆(たかしま しゅうはん)が没収された砲術関係の書物が保管されており、山本は所蔵していた砲術関係の書籍を貸したり写させたりして謝礼金をもらっており、福澤は鉄砲の設計図を引くことさえできるようになった。
同時期に長崎遊学していた薩摩藩の松崎鼎甫(まつざき ていほ)にはアルファベットを教えてもらっている。

その時分の諸藩の西洋家、例えば宇和島藩(大村益次郎=おおむら ますじろう=)、五島藩、佐賀藩(本島藤太夫=もとじま とうだゆう=)、水戸藩(菊池富太郎=きくち とみたろう=)などの人々が来て、出島のオランダ屋敷に行ってみたいとか、大砲を鋳るから図をみせてくれとか、そんな世話をするのが山本家の仕事であり、その実はみな福澤の仕事であった。
中でも、菊池富太郎は黒船に乗船することを許された人物で、福澤はこの長崎滞在時にかなり多くの知識を得ることができた。

山本自身は蘭書が読めなかったため、実際に蘭学を習ったのは楢林健吉(ならばやし けんきち。シーボルト=Philipp Franz von Siebold=の弟子の楢林栄建=ならばやし えいけん=の子孫)という通詞の家であった。
その傍ら石川桜所(いしかわ おうしょ)の下で暇を見つけては教えを受けたり、縁を頼りに勉学を続けた。

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適塾時代(大坂)

安政2年(1855年)、その山本家を紹介した奥平壱岐(おくだいら いき)や、その実家である奥平家(中津藩家老の家柄)と不和になり、中津へ戻るようにとの知らせが届く。
しかし福澤本人は前年に中津を出立したときから中津へ戻るつもりなど毛頭なく、大坂を経て江戸へ出る計画を強行する。

大坂へ到着すると、かつての父と同じく中津藩蔵屋敷に務めていた兄を訪ねる。
すると兄から江戸へは行くなと引き止められ、大坂で蘭学を学ぶよう説得される。
そこで大坂の中津藩蔵屋敷に居候しながら、当時「過所町の先生」と呼ばれ、他を圧倒していた足守藩下士で蘭学者の緒方洪庵の適塾(適々斎塾=てきてきさいじゅく=)で学ぶこととなった。

ところが腸チフスを患い、緒方から「乃公はお前の病気を屹と診てやる。診てやるけれども、乃公が自分で処方することは出来ない。何分にも迷うてしまう。この薬あの薬と迷うて、あとになってそうでもなかったと言ってまた薬の加減をするというような訳けで、しまいには何の療治をしたか訳けが分からぬようになるというのは人情の免れぬことであるから、病は診てやるが執匙は外の医者に頼む。そのつもりにして居れ」(自伝)と告げられ、緒方の朋友、内藤数馬(ないとう かずま)から処置を施され、体力が回復し一時中津へ帰国する。

安政3年(1856年)、再び大坂へ出て学ぶ。
同年、兄が死に福澤家の家督を継ぐことになる。
しかし大坂遊学を諦めきれず、父の蔵書や家財道具を売り払って借金を完済した後、母以外の親類から反対されるもこれを押し切って再び大坂の適塾で学んだ。
学費を払う余裕はなかったので、福澤が奥平壱岐から借り受けて密かに筆写した築城学の教科書[*] を翻訳するという名目で適塾の食客(住み込み学生)として学ぶこととなる。

[*]
>> C.M.H.Pel (1819-1887)/Handleiding tot de kennis der versterkingskunst ten dienste van onderofficieren(下士官の業務水準を高めるための手順書)/1852

この時、丹後宮津藩士・高橋順益(たかはし じゅんえき)から酒と煙草を勧められ、これを覚えた。

また、先輩の一人である村田蔵六(大村益次郎)は人一倍暗い性格で、殴り合いになっても怒らず、つねる程度だったという。

安政4年(1857年)には最年少22歳で適塾の塾頭となり、後任に長與專齋(ながよ せんさい)を指名した。
適塾ではオランダ語の原書を読み、あるいは筆写し、時にその記述に従って化学実験、簡易な理科実験などをしていた。
ただし、もともと血を見るのが苦手であったため、瀉血(しゃけつ)や手術解剖のたぐいには手を出さなかった。
適塾は診療所が附設してあり医学塾ではあったが、福澤は医学を学んだというよりはオランダ語を学んだということのようである。

幼少の時から酒を好みよく飲んでいたが、この適塾時代にはかなり飲んだとされ、塾長になり、金弐朱の収入を受けてからもほとんどを酒の代に使い、銭の乏しいときは酒屋で三合か五合買って来て塾中で独り飲むということであった。

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江戸に出る

安政5年(1858年)、中津藩から江戸出府を命じられる(差出人は江戸居留守役の岡見清熙=おかみ きよひろ=)。

岡見清熙は、中津藩邸(築地鉄砲洲=つきじてっぽうず=)に近い木挽町(こびきちょう。現在の銀座)の象山書院(ぞうやましょいん。五月塾)を開いていた佐久間象山(さくま しょうざん=ぞうざん=/1811-1864)に学び、江戸の中津藩邸に蘭学塾を設けていた。
もともとこの蘭学塾は象山書院から受けた影響が大きく、ペリー(Matthew Calbraith Perry)の渡来に先んじて嘉永3年(1850年)ごろから、すでに藩士たちが象山について洋式砲術の教授を受け、月に5、6回も出張してもらい、学ぶ者も数十名に及んでいる。

その蘭学塾の講師となるために吉川正雄(当時の名は岡本周吉、後に古川節蔵=ふるかわ せつぞう=)、原田磊蔵(はらだ らいぞう)を伴い江戸へ出る。
築地鉄砲洲(つきじてっぽうず)にあった奥平家の中屋敷に住み込み、そこで蘭学を教えた。

まもなく足立寛(あだち かん)、村田蔵六(大村益次郎)の「鳩居堂」(きゅうきょどう)から移ってきた佐倉藩の沼崎巳之介(ぬまざき たつのすけ)、沼崎済介(ぬまざき さだすけ)が入塾し、この蘭学塾「一小家塾」(いちしょうかじゅく)が後の慶應義塾の基礎となったため、この年が創立の年とされている。

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安政6年(1859年)、日米修好通商条約により外国人居留地となった横浜の見物に出かける。
しかしそこではもっぱら英語が用いられており、自身が学んできたオランダ語が全く通じず、看板の文字すら読めないことに衝撃を受ける。
それ以来、英語の必要性を痛感した福澤は、英蘭辞書などをたよりにほぼ独学で英語の勉強を始める。
世界の覇権は大英帝国が握っており、すでにオランダに昔日の面影が無いことは当時の蘭学者の間では常識で、緒方洪庵もこれからは英語やドイツ語を学ばなければならないという認識を持っていた。
しかし、オランダが鎖国の唯一の例外であり、現実にはオランダ語以外の本は入手困難だった。

横浜を見物して以来、幕府通辞の森山栄之助(もりやま えいのすけ)を訪問して英学を学んだ後、蕃書調所(ばんしょしらべしょ)へ入所したが英蘭辞書が持ち出し禁止だったために1日で退所している。
次いで神田孝平(かんだ たかひら)と一緒に学ぼうとするが、神田は蘭学から英学に転向することに躊躇を見せており、今までと同じように蘭学のみを学習することを望んだ。
そこで村田蔵六(大村益次郎)に相談してみたが、村田はヘボン(James Curtis Hepburn)に手ほどきを受けようとしていた。
ようやく蕃書調所の原田敬策(原田一道=はらだ いちどう=)と共に英書を読もうということになり、蘭学だけではなく英学も習得していくことになる。

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渡米

安政6年(1859年)の冬、日米修好通商条約の批准交換のために使節団が米軍艦ポーハタン号(USS Powhatan 1850)で渡米することとなり、その護衛として咸臨丸(かんりんまる)をアメリカ合衆国に派遣することが岩瀬忠震(いわせ ただなり)の建言で決定した。

万延元年1月19日(1860年2月10日)、福澤は咸臨丸の艦長となる軍艦奉行木村摂津守(木村芥舟=きむら かいしゅう=)の従者として、アメリカへ発つ。
翻訳途中だった『万国政表』(統計表)は留守中に門下生が完成させている。
5月5日帰国。

なお、咸臨丸の指揮官は勝海舟(1823-1899)であった。
当時、福澤と勝はあまり仲が良くなかった様子で、晩年までぎこちない関係が続いた。
『福翁自伝』に航海中の勝の様子を揶揄するような記述が見られる。

アメリカでは、科学分野に関しては書物によって既知の事柄も多かったが、文化の違いに関しては様々に衝撃を受けた。

福澤は、通訳として随行していた中浜万次郎(ジョン万次郎。1827-1898)とともに『ウェブスター大辞書』の抄略版を購入し、日本へ持ち帰って研究の助けとした。

帰国し、アメリカで購入してきた広東語・英語対訳の単語集である『華英通語』(かえいつうご)の英語にカタカナで読みを付け、広東語の漢字の横には日本語の訳語を付記した『増訂華英通語』を出版する(万延元年 、1860年)。
これは福澤が初めて出版した書物である。

再び鉄砲洲で講義も行うが、その内容は従来のようなオランダ語ではなくもっぱら英語であり、蘭学塾から英学塾へと方針を転換した。

また、幕府の外国方に雇われて公文書の翻訳をおこなった。
これら外国から日本に対する公文書にはオランダ語の翻訳を附することが慣例となっていたため、英語とオランダ語を対照するのに都合がよく、これで英語の勉強をおこなったりもした。

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渡欧(幕臣時代)

文久元年(1861年)に中津藩士、土岐太郎八(とき たろはち)の次女・お錦と結婚した。

その年の冬、竹内下野守(竹内保徳=たけうち やすのり=)を正使とする文久遣欧使節を英艦・オーディン号(HMS Odin 1846)で欧州各国へ派遣することとなり、文久2年1月1日(1862年1月30日)、福澤も翻訳方としてこれに同行することとなった。
同行者には松木弘安(寺島宗則=てらしま むねのり=)、箕作秋坪(みつくり しゅうへい)がおり、行動を共にした。

一行は、香港、シンガポール、インド洋、紅海、スエズの地峡を汽車で越え、地中海を渡りマルセイユに上陸。
リヨン、パリ、ロンドン、ロッテルダム、ハーグ、アムステルダム、ベルリン、ペテルブルク(サンクトペテルブルク)、リスボンなどを見物し、12月11日帰国した。

ロンドンでは、ちょうど開かれていた万国博覧会を視察し、蒸気機関車、電気機器、植字機に触れる。
樺太国境問題を討議するために訪れたサンクトペテルブルクでは、陸軍病院で外科手術を見学した。
この旅で福澤は幕府から支給された支度金400両で英書、物理書、地理書を買い込み、日本へ持ち帰っている。

ヨーロッパでも土地取引など文化的差異に驚きつつ、書物では分からないような、ヨーロッパ人にとっては通常であっても日本人にとっては未知の事柄である日常について調べた。
たとえば病院や銀行、郵便法、徴兵令、選挙制度、議会制度などについてである。
これら遣外使節団などへの参加経験を通じて、福澤は日本に洋学の普及が必要であることを痛感する。

また、香港で植民地主義、帝国主義を目の当たりにし、イギリス人が中国人を犬猫同然に扱うことに強い衝撃を受ける。

また、フランスの青年レオン・ド・ロニー(Léon de Rosny。1837-1914)と友好を結び、「アメリカおよび東洋民族誌学会」の正会員となり、外国の学会の正会員に最も早い時期で就任している。

文久3年(1863年)7月、薩英戦争が起こったことにより幕府の仕事が忙しくなり、外国奉行・松平石見守(松平康英=まつだいら やすひで=)の屋敷に赴き、外交文書を徹夜で翻訳に当たった。

この頃には過激な攘夷論が目立つようになり、文久2年頃から明治6年頃までが江戸が一番物騒な世の中であったと回想している。

元治元年(1864年)には、福澤は郷里である中津に赴き、小幡篤次郎(おばた とくじろう)や三輪光五郎(みわ みつごろう)ら6名を連れて来た。
同年10月には外国奉行支配調役次席翻訳御用(幕臣)として出仕し、臨時の「御雇い」ではなく幕府直参として150俵・15両を受けて、御目見(おめみえ)以上となり、旗本(はたもと)となった。

渡米、渡欧の経験から、『西洋事情』(慶応2年、1866年。明治元年、1868年。明治3年、1870年)などの著書を通じて啓蒙活動を開始。
幕府機構の改革を唱えた。
またアメリカ独立宣言の全文を翻訳して、『西洋事情』(初編 巻之二)中に「千七百七十六年第七月四日亜米利加十三州独立ノ檄文」として掲載して日本に伝えた。

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長州征伐で幕府軍が長州藩に敗北したと聞き、イギリスの鉄砲を取り寄せて分解し、初の西洋兵学書の翻訳『雷銃操法』(慶応3年、1867年)を訳し始める。
続いて、戊辰戦争に際し仙台藩が福澤に翻訳させた『兵士懐中便覧』(明治元年、1868年)は奥羽越列藩同盟藩士の多くが読んだとされる。
明治2年(1869年)には、熊本藩の依頼で本格的な西洋戦術書『洋兵明鑑』を小幡篤次郎、小幡甚三郎(おばた じんざぶろう)と共訳した。

慶応3年(1867年)、使節主席・小野友五郎(おの ともごろう)と共に、幕府の軍艦受取委員会随員として、コロラド号という郵便船で横浜から再渡米し、ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.を訪れた。
津田仙(つだ せん)、尺振八(せき しんぱち)が同乗していた。

現地で小野と揉めたため帰国後はしばらく謹慎することとなったが、中島三郎助(なかじま さぶろうすけ)の働きかけですぐに解けた。

紀州藩や仙台藩から資金を預かり、およそ5,000両で、辞書、物理書、地図帳を買い込み、帰国後、『西洋旅案内』(慶応3年。1867年)を書き上げた。

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慶応4年(1868年)には蘭学塾を慶應義塾と名付け、教育活動に専念する。

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>> 義塾のこと
http://www.music-tel.com/naosuke/nao-h/20010201gijyuku.html
>> 「義塾」という名のおこり:[慶應義塾]
http://www.keio.ac.jp/ja/contents/mamehyakka/8.html
<編集文ここから>

『慶應義塾百年史』における中山一義(なかやま かずよし。1908-1987)文学部教授の説。

「義塾」は、「学校」という普通名詞と同じ意味で使われている。
福澤諭吉は、イギリスのパブリック・スク-ルを理想的な私立学校だと考えた。
これは、公共団体の基金によって運営される私立学校であるが、ロンドンでそれを視察した福澤は、学校の機構や運営方法に大いに感ずるところがあったらしい。
ロンドン滞在中に購入した英語と中国語の辞書で「public school」を引いてみると、「義学、学校」とある。
この訳を日本の学塾風に「義塾」と改めたのではないか。

最近の研究では、江戸時代後期に「義塾」という用語が使われていることが紹介された。
使用例が少ないのではっきりしないが、福澤先生はこの「義塾」という古い皮袋に、英国の私立学校制度という新しい酒を盛ったのであろう。

<編集文ここまで>

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官軍と彰義隊の合戦が起こる中でも、ウェイランド(Francis Wayland。1796-1865)の『経済学原論』(”The Elements of Political Economy”, 1837)の講義を続けた。
なお、漢語に由来する「経済学」の語は、福澤や神田孝平(かんだ たかひら)らにより、political economy もしくは economics の訳語として定着した。

慶応4年(1868年)6月、幕府に退身届を提出して退官。
福澤は徳川将軍家を中心とする封建政治の再編成と幕府の延命策(公武合体論)を考えていたようであるが、維新後、国会開設運動が全国に広がると、一定の距離を置きながら、英国流憲法論を唱えた。

福澤にも山縣有朋、松本良順らから出仕の勧めが来たがこれを断り、弟子達を新政府の文部官吏として送り込む一方、自らは慶應義塾の運営と啓蒙活動に専念することとした。

新銭座の土地を攻玉社の塾長・近藤真琴(こんどう まこと)に300円で譲り渡し、三田に移動して『帳合之法』(1873年、1874年)(現在の簿記)などの講義を始めた。
また、明六社(啓蒙学術団体。森有礼が中心となり結成される)に参加。

廃藩置県を歓迎し、「政権」(government。軍事や外交)と「治権」(administration。地方の治安維持や教育)の全てを政府が握るのではなく、「治権」は地方の人に委ねるべきであるとした『分権論』(1876年)では、これを成立させた西郷隆盛への感謝と共に、地方分権が士族の不満を救うと論じた。

『丁丑公論』(1877年脱稿、1901年出版)では、政府が掌を返して西南戦争で西郷を追い込むのはおかしいと主張した。
『丁丑公論』は内容が過激だった為、発表は福沢諭吉没後となった。

『民間経済禄』(1877年)、『通俗民権論』(1878年)、『通俗国権論』(1878年)なども官民調和の主張ないしは初歩的な啓蒙を行ったものであった。

明治6年(1873年)9月4日の午後には岩倉使節団に随行していた長与専斎(ながよせんさい)の紹介で木戸孝允(きど たかよし。桂小五郎、かつら こごろう)と会談。
木戸が文部卿だった期間は4か月に過ぎなかったが、学制(日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令)を制定し、「文部省は竹橋にあり、文部卿は三田にあり」の声があるほど、明治初期までは福沢の思い描く国家の構想が反映されるかのように見えた。

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薩長藩閥との対立

明治8年(1875年)、大久保利通(おおくぼ としみち)が出版検閲の権限を文部省から内務省に移管したことで、福澤の弟子の秋山恒太郎(あきやま つねたろう)が辞職するという災難に遭った。
これを見た福澤は、『民間雑誌』に「内務卿の凶聞」という社説を大久保暗殺後に掲載。
これが問題となり、編集長の加藤政之助(かとう まさのすけ)が内務省警視局に呼び出され、『民間雑誌』は廃刊となる。

そこで目をつけたのが、薩長藩閥ではない大隈重信(おおくま しげのぶ)の存在だった。
福澤は大隈を頼りに統計院(後の内閣統計局)を設立させる。
統計院は設立直後から、「憲法の調査立案」という統計と関係のない機能を併せ持っていた。
ここに矢野文雄(やの ふみお)、犬養毅(いぬかい つよし)、尾崎行雄(おざき ゆきお)といった人材を投入し、大隈のブレーンとして活躍できるようにした。

明治7年(1874年)、板垣退助(いたがき たいすけ)、後藤象二郎(ごとう しょうじろう)、江藤新平(えとう しんぺい)が野に下ると、高知の立志学舎に門下生を教師として派遣したほか、後藤象二郎の政治活動を支援し、国会開設運動の先頭に立って郵便報知新聞に「国会論」と題する社説を掲載。
また、愛国社から頼まれて『国会を開設するの允可を上願する書』の起草に助力。

入念に門下らと憲法を思案する中、大隈重信が提出していた早期国会開設論の背後に福澤の影があると、放った密偵によって察知した伊藤博文(いとう ひろぶみ)は、対処をプロシア流憲法の草案者で、明治政府一番の能吏・井上毅(いのうえ こわし)に一任することになる。
また、北海道開拓使官有物払い下げ問題で、本山彦一(もとやま ひこいち)、箕浦勝人(みのうら かつんど)、門田三郎兵衛(かどた さぶろうべえ)らが『大阪新報』を通じて問題を糾弾。

薩摩閥の怒りは頂点に達し、岩倉具視(いわくら ともみ)、九鬼隆一(くき りゅういち)らも加わって大隈一派を政府内から一掃するクーデター(明治十四年の政変)が起こる事となった。

さらに、井上毅が「大日本帝国憲法」、「皇室典範」、「教育勅語」、「軍人勅諭」の起草全てに参加したため、これ以後、福澤は明治政府と一切の付き合いを辞めることとなった。

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政変の後の福澤への明治政府の仕打ちは厳しく、政府主導で設立する予定だった『時事新報』も自らの手で創刊することになった。

ただ、『時事新報』は明治15年(1882年)3月1日に創刊されるや否や1500部全てを売る結果となり、この後、時事新報は一定の成功を収めることとなった。

福澤諭吉は明治10年(1877年)前後から自由民権運動を批判し始め、「国権論」を強調し始めた。
明治15年3月28日の「圧制も亦愉快なる哉」や「時事小言」でも国権皇張を目的とすることが説かれ、国家の独立と富国強兵、官民調和を積極的に主張した。

『時事新報』の論調は、国民主義(nationalism)に傾いているものが多かった。
この明治のナショナリズムは、のちに陸羯南(くが かつなん)や徳富猪一郎(徳富蘇峰=とくとみ そほう=)らによって模倣されていくこととなる。

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朝鮮独立運動支援

福澤は、朝鮮人愛国者・金玉均(Kim Ok-gyun)との出会いをきっかけにして、朝鮮の独立運動にも加担することになる。
福澤が日本の文明開化の立役者であるということは朝鮮にも知れ渡っており、明治14年(1881年)3月6日、金玉均は福澤との 面会を果たし、朝鮮独立への協力を依頼した。

明治15年(1882年)7月23日、壬午事変(じんごじへん)が勃発すると、福澤は金を支援するため牛場卓蔵(うしば たくぞう)と井上角五郎(いのうえ かくごろう)を派遣。
『漢城旬報』という朝鮮最初の新聞を発行する。

井上は福澤の助言に従い、朝鮮式かな混じり文を考案するため、朝鮮の文法学者と共に、李朝第四代の王・世宗(Sejong)によって公布された訓民正音(hunminjeongeum)の研究を開始。
国王・高宗(Gojong)の内諾を取り、新字体で紙面を構成し始める。
これが今日の朝鮮文体「ハングル」である。

明治17年(1884年)12月4日、甲申事変(こうしんじへん)が起こるも失敗。
明治18年(1885年)3月16日、福澤は『時事新報』に「脱亜論」を発表する。
その5か月後には、社説「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」を発表する。
内容は、「人民の生命も財産も独立国民の誇りも守ってやれないような国は、むしろ滅びてしまった方が人民のためだ。」という強烈なものだった。

その後、金玉均は福沢邸にしばらく潜伏していたが、清の最高実力者・李鴻章(Li Hongzhang)の引渡しに応じ、日本郵船の西京丸で上海へ向かわせたが、無残にも暗殺されることとなった。

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教育支援

教育令が思った通りにならず、福澤考案の田中不二麿(たなか ふじまろ)や中島信行(なかじま のぶゆき)の建言が、佐野常民(さの つねたみ)、元田永孚(もとだ ながさね)、更には薩長派文部卿に転じた九鬼隆一(くき りゅういち)によって潰される。

教育の画一化、中央集権化、官立化が確立されると、東京大学に莫大な資金が注ぎ込まれ、慶應義塾は経営難となる。
そして島津家に維持費用援助を要請することになった。
一方、優秀な門下生は、大学南校、大学東校、東京師範学校の教授として引き抜かれていくということも起こっていた。

明治13年(1880年)、伊藤博文から、西郷隆盛や板垣退助(いたがき たいすけ)などと同じく政府に反発する者・自由民権運動の火付け役として睨まれていた福澤の立場は益々厳しいものとなったが「慶應義塾維持法案」を作成し、自らは経営から手を引き、渡部久馬八((わたなべ くまはち)、門野幾之進(かどの いくのしん)、浜野定四郎(はまの さだしろう)の3人に経営を任せることにした。
この頃から平民の学生が増えた事により、運営が徐々に黒字化するようになった。

また、私立の総合大学が慶應義塾のみで、もっと多くの私立学校が必要だと考え、門下を大阪商業講習所(現・大阪市立大学)や商法講習所(現・一橋大学)で活躍させる一方、専修学校(現・専修大学)や東京専門学校(現・早稲田大学)、英吉利法律学校(現・中央大学)の設立を支援し、開校式にも出席した。
しかし東京専門学校などは、大隈重信嫌いの山縣有朋(やまがた ありとも)など薩長参議が潰そうとしてきた為、設立は困難を極め、開校式に大隈が15年間出席せず、「学問の独立」という宣言を小野梓(おの あずさ)が発表するに留まった。

明治25年(1892年)には、長与専斎(ながよ せんさい)の紹介で北里柴三郎(きたざと しばさぶろう)を迎えて、伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)や土筆ヶ岡養生園(現・北里大学 北里研究所病院)を森村市左衛門(もりむら いちざえもん)と共に設立していく。
ちょうど帝国大学の構想が持ち上がっている頃だったが、慶應義塾に大学部を設置し小泉信吉(こいずみ のぶきち)を招聘して、一貫教育の体制を確立した。

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晩年

晩年は旅行や著作に多くの時間を費やし、旅行に出かける時は常に居合刀を携帯して、健康のために振った。

自叙伝『福翁自伝』を記し始める。

親友の木村芥舟(きむら かいしゅう/1830-1901)と交遊しながら要人との会談も積極的に行い、木村浩吉(きむら こうきち/1861-1926/芥舟の息子)の推薦で山本権兵衛(1852-1933)、後藤新平(1857-1929)など、見込みのある人物との交流を行っている。

また、旧幕人懇親会で福沢と同じく明治政府に出仕していなかった友人の栗本鋤雲(くりもと じょうん/1822-1897)が勝海舟に向かって「腰抜けは下がれ!」と大渇し、また『瘠我慢の説』の草稿をいち早く栗本に見せたため、内容が外部に漏れてしまうこととなったが、明治34年(1901年)1月1日から時事新報に連載が開始された。

晩年までに出版された著作は、現在の学問、科学についてほとんどの領域が言及されており、その大半が日本で始めて著されているもので、出版されていない作品も多く、また当時の時勢、文化、歴史上の人物評等が得られる貴重な歴史資料ともなっている。

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晩年の年譜

1879年(明治12年)、東京学士会院(現・日本学士院)初代会長就任。
東京府会副議長に選出されるが辞退。
『民情一新』刊。

1880年(明治13年)、専修学校(現・専修大学)の創設に協力し、京橋区の福澤の簿記講習所、また木挽町の明治会堂を専修学校の創立者4人に提供した。
11月、慶應義塾が塾生の激減により財政難に陥ったため、福澤は廃塾を決意するが、広く寄付を求める「慶應義塾維持法案」を発表して、門下生たちが奔走した結果、危機を乗り切る。

1881年(明治14年)1月23日、「慶應義塾仮憲法」を制定、引き続き福澤が社頭となる。
8月、明治十四年の政変が起き、政府要人と絶交する。
上野ー青森間の日本鉄道会社設立に助力。

1882年(明治15年)、日刊新聞『時事新報』を創刊し、不偏不党・国権皇張の理念のもと、世論を先導した。
『帝室論』刊。

1890年(明治23年)1月、慶應義塾に大学部発足、文学科・理財科・法律科の3科を置く。

1892年(明治25年)、伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)の設立に尽力(北里柴三郎が初代所長となる)。
1893年(明治26年)、土筆ヶ岡養生園(現・北里大学 北里研究所病院)開設

1898年(明治31年)5月、慶應義塾の学制を改革し、一貫教育制度を樹立、政治科を増設。
9月26日、脳出血で倒れ、いったん回復。

1900年(明治32年)8月8日、再び倒れ意識不明になったが、約1時間後に意識を回復。
『修身要領』完成。

1901年(明治34年)1月25日、再び脳出血で倒れる。
2月3日、再出血し、午後10時50分死去。

死によせて福地源一郎(ふくち げんいちろう)が書いた記事は会心の出来映えで、明治期でも指折りの名文とされる。

爵位を断る。
2月7日、衆議院において満場一致で哀悼を決議。
(明治34年2月8日付「官報」号外、「第15回帝国議会・衆議院議事録・明治33.12.25 – 明治34.3.24」=国立公文書館 ref:A07050006700=)

2月8日、葬儀が執り行われる。
生前の考えを尊重して「塾葬」とせず、福澤家の私事とされる。

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人物・思想

同世代の思想家を挙げると、橋本左内とは同年代、吉田松陰は4つ年上、坂本龍馬はひとつ年下、高杉晋作は5つ年下。

同時代の思想家で、最も共通しているといわれているのは横井小楠で、小楠が唱えた天意自然の理に従うという理神論「天の思想」と福沢の人生観が合致するとされている。
(『横井小楠とその弟子たち』1979)。

福澤の著書には、しばしば儒学者の荻生徂徠(おぎゅう そらい)が出てくるが、思想には影響を受けた大儒であってもやはり漢学者には心酔者が多いのでだめであると論じた。
(『「文明論之概略」を読む 上』1986)。

期待していた水戸藩が維新前に水戸学の立原翠軒派と藤田幽谷派の内ゲバや天狗党の乱で分裂してしまったことを例に挙げ、学問や政治の宗教化を厳しく批判し、その他宗教的なものは一切認めないと論じた。
(『「文明論之概略」を読む 上』1986)。

『文明論之概略』は新井白石(あらい はくせき)の『読史余論』から影響を受けており、維新の動乱の最中、程度の高い成人向けに「なかんずく儒教流の故老に訴えてその賛成をうる」ことを目的とし、西郷南州なども通読したることになった。
(小泉信三『福沢諭吉』1966)

福澤の代表的な言葉で戒名にも用いられた言葉が「独立自尊」である。
その意味は「心身の独立を全うし、自らその身を尊重して、人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云ふ」。
(『修身要領』1901 第二条)。

ベストセラーになった『西洋事情』や『文明論之概略』などの著作を発表し、明治維新後の日本が中華思想、儒教精神から脱却して西洋文明をより積極的に受け入れる流れを作った(脱亜思想)。

家柄がものをいう封建制度を「親の敵(かたき)」と激しく嫌悪した。
その怒りの矛先は幕府だけでなく依然として中華思想からなる冊封体制を維持していた清や李氏朝鮮の支配層にも向けられた。

榎本武揚や勝海舟のように、旧幕臣でありながら新政府でも要職に就く姿勢を「オポチュニスト」と徹底的に批判する一面もある。
(『瘠我慢の説』1901)。

宗教については淡白で、『福翁自伝』において、「幼少の時から神様が怖いだの仏様が難有(ありがた)いだのということは一寸(ちよい)ともない。卜筮呪詛(うらないまじない)一切不信仰で、狐狸(きつねたぬき)が付くというようなことは初めから馬鹿にして少しも信じない。子供ながらも精神は誠にカラリとしたものでした」と述べている。

銀行、特に中央銀行の考え方を日本に伝えた人物で、日本銀行の設立に注力している。

会計学の基礎となる複式簿記を日本に紹介した人物でもある。
借方貸方という語は福澤の訳によるもの。

日本に近代保険制度を紹介した。
福澤は『西洋旅案内』の中で「災難請合の事-インスアランス-」という表現を使い、生涯請合(生命保険)、火災請合(火災保険)、海上請合(海上保険)の三種の災難請合について説いている。

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アジア近隣諸国に対して

福澤は、アジアの「改革勢力」の支援を通じて近隣諸国の「近代化」に力を注いでいる。
李氏朝鮮の金玉均などを支援しているし、漢文とハングルの混合文を発案するとともに、朝鮮で初めてのハングル交じりの新聞『漢城周報』へと発展する『漢城旬報』(漢字表記)の創刊にも私財を投じて関わっている。
また朝鮮からの留学生も1881年(明治14年)6月から慶應義塾に受け入れている。

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居合の達人

福澤は、若年の頃より立見新流居合の修練を積み、成人の頃に免許皆伝を許された居合の達人であった。
ただし、福澤自身、居合はあくまでも求道の手段であり殺人術でないと考えていたと思われ、同じく剣の達人と言われながら生涯人を斬ったことが無かった勝海舟、山岡鉄舟の思想と似ている。

晩年まで健康のためと称し、居合の形稽古に明け暮れていた。
医学者の土屋雅春(1928-2001)は福澤の死因の一つに居合のやりすぎを挙げている。
晩年まで一日千本以上行っていた居合日記を付けており、これでは逆に健康を害すると分析されている。

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SNSI による福澤諭吉論について

>> 「492」現下の総選挙。福澤諭吉の文章がいい。バード論文「消費性向とデフレ」を賞揚する。2003.11.4/副島隆彦(そえじまたかひこ)の学問道場 – 今日のぼやき
http://www.snsi.jp/tops/boyaki/548
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今、読み返しても、やはり、福澤諭吉の文章と思想は、すばらしい。
私は、彼をお手本として、「学問道場」を営んでいます。
今の、慶応( 義塾、と慶応大の人たちは必ずくっつける)大学には、福澤の遺志をきちんと継ぐような人物はひとりもいない

[4041] 福沢諭吉・著『学問のすゝめ』(岩波文庫)より。 投稿者:庄司 誠 投稿日:2003/09/28(Sun) 22:49:25

ここに改めて日本の元祖リバータリアンともいうべき福沢諭吉先生が、学問というものをどのように考えていたかを紹介しましょう。

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>> 「637」 今こそ、福澤諭吉(ふくざわゆきち)の独立自尊の精神を、私たちが持つべきです。IFSAのサイトから転載します。 2005.2.12/副島隆彦(そえじまたかひこ)の学問道場 – 今日のぼやき
http://www.snsi.jp/tops/boyaki/693
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福澤諭吉は、私、副島隆彦の理想であり、お手本ですから、こういう文章を読むと、無性に皆さんに読んでいただきたい気持ちになります。

知識、思想、すぐれた言論は、みんなのものです。
みんなの公共財産(public property)です。
そうあるべきです。

今から140年前に、福澤諭吉先生が、以下の文章にあるごとく、日本国が列強(れっきょう。powers パウアズ の訳語。強大国のこと)の属国となることなく、独立自尊(どくりつじそん)の国であるようにと解いたことに、私は改めて学ぼうと思います。

>> 福沢諭吉 – NPO法人 国際留学生協会/向学新聞
http://www.ifsa.jp/index.php?kiji-sekai-fukuzawa.htm

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>> 「644」今月の書評「福沢諭吉とイギリス思想―坂本多加雄『市場・道徳・秩序』を読む―」“福沢諭吉と徳富蘇峰”、“中江兆民・幸徳秋水”から読み解く日本の思想史の系譜。吉田研究員 筆 2005.03.02/副島隆彦(そえじまたかひこ)の学問道場 – 今日のぼやき
http://www.snsi.jp/tops/boyaki/700
<編集文ここから>

福沢諭吉が学んだのは当時の「英学」であった。
すなわちイギリスの政治経済思想を学んだのである。
そこでは、アダム・スミス(Adam Smith。1723-1790)を含むイギリスの古典派(classical economics)、その先駆であるヒューム(David Hume。1711-1776)などの「スコットランド啓蒙派」(the Scottish Enlightenment)を学んだに違いないのである。

そうしたイギリス思想の流れを汲むのがハイエク(Friedrich Hayek。1899-1992)なのであるから、福沢の思想がハイエクと親和性があるのは当然のことである。

また当時は、イギリス経験論(British empiricism)と大陸合理論(continental rationalism)の対立図式があった。

そうなると、イギリス経験論の輸入者、福沢諭吉と、大陸合理論のの輸入者、中江兆民(なかえ ちょうみん。1847-1901)の対立図式も浮かび上がる。

そして、福沢諭吉の後継が徳富蘇峰(とくとみ そほう。1863-1957)となり、中江兆民の弟子が幸徳秋水(こうとく しゅうすい。1871-1911)となる。

『福翁自伝』を読むと、福沢はイギリス思想とくに「スコットランド啓蒙派」の思想がよく分かっている人だと感じる。

誰にも依存せず、誰からも圧力をかけられないではじめて独立した思想を形成することができると、ヒュームが述べている。
これを踏まえれば、福沢の「独立自尊」(independent)の意味がよくわかる。

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>> 「650」 平山洋(ひらやま・よう)著『福沢諭吉の真実』(文藝春秋・新書2004年)を書評する。 ~やはり福沢諭吉は日本のアジア侵略を肯定などしていなかった。歪められてきた福沢諭吉像を正す。庄司誠・筆。2005.3.27/副島隆彦(そえじまたかひこ)の学問道場 – 今日のぼやき
http://www.snsi.jp/tops/boyaki/706
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福沢は、「脱亜入欧」を唱えた思想家として有名だ。
「脱亜入欧」とは、日本は遅れた野蛮なアジアの悪友とは縁を切って、進んだヨーロッパ文明諸国と仲間になるべきだ、という考えである。

しかし、福沢の持つ近代主義は、自省のないヨーロッパかぶれ、あるいは世間の流行や時世に阿(おもね)っただけの事大主義的な西欧近代追従などでは決してなかった。

ちなみに福沢は、「脱亜入欧」なる語を自らの思想表明のスローガンとしたことはない。
これは後世の誤った福沢解釈である。

欧米列強の脅威に対しては、これに屈することなく日本人としての気概と誇りをもって我が国の独立を守ること。
いわば士大夫としての、この心意気こそがなによりも肝要であると説いたのが福沢なのである。

福沢は、西欧近代型の教育者、言論人、あるいは優れたビジネスリーダーとして明治から現在に到るまで称揚され続けてきた。

だがその一方で、アジアを蔑視し韓半島や中国大陸への侵略を積極的に肯定する論説を露骨に大量に書いてきたということで、大東亜戦争後は、批判の的でもあった。
つまり、例えば社会思想史家の安川寿之輔(やすかわ じゅのすけ。1935-)氏のような福沢の批判者にとっては、福沢は単なるアジア侵略のイデオロゴーグ、扇動家に過ぎなかったということなのである。

だが、平山洋(ひらやま よう。1961-)氏は、こういった福沢に対する従来の評価や批判に対して根本から疑問を呈した。

結論から言うと、それらは、石河幹明(いしかわ かんめい。1859-1943)という福沢の弟子で、『福沢諭吉伝』を著し、かつ『時事新報』主筆をも勤めた人物(と、石河の弟子の富田正文=とみた まさふみ。1898-1993=)が意図的に捏造した福沢諭吉像に過ぎない。

平山洋氏によるならば、福沢の論説「脱亜論」は、主に、我が国はこのままだと支那や朝鮮と同様に西欧型の近代化を拒否するだけの野蛮国だと見なされて、欧米列強から侵略を受ける可能性があるぞと、日本国民に警告を発しただけのものなのである。

まず「脱亜論」は、『時事新報』誌の社説、「朝鮮独立党の処刑」(「脱亜論」の3週間前に発表された)の続編というべきものであり、当時の『時事新報』の読者からすれば「朝鮮独立党の処刑」の要約のようなものでしかなかった。
「脱亜論」は、独立した単独論文ではなかったのである。

そして「脱亜論」は、朝鮮の甲申政変(1884)による独立党主導の朝鮮国の独立と近代化を擁護していた論説でもあった。
つまり独立党の義挙に対する清国軍の不当な政治介入、および、清国と結託した朝鮮事大党による独立党への過酷な弾圧政策に対して怒りの告発を行い、これを強く非難していたものに過ぎない。
決して支那人・朝鮮人蔑視からアジアの離脱を説いたわけではなかった。

>> 朝鮮独立党の処刑 – Wikisource
http://ja.wikisource.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E5%85%9A%E3%81%AE%E5%87%A6%E5%88%91
>> 脱亜論 – Wikisource
http://ja.wikisource.org/wiki/%E8%84%B1%E4%BA%9C%E8%AB%96

石河幹明は、石河明善(いしかわ めいぜん。1819-1868)という水戸学者の甥(おい)である。
そして石河幹明は、領土拡張主義者であり、民族差別主義者であった。

福沢の思想と石河の思想は全く違う。

まず、福沢には皇室に対する過剰な思い入れがなかった。
福沢には日本国民として君主である天皇を尊重するのは当然であるというぐらいの認識しかなかった。

また、石河の領土拡張主義にも福沢は反対であった。
領土の拡大などは、産業育成と経済交流が立国の中心となった明治維新以後は、あまり意味のないことだと考えていたからである。
福沢は、政治や軍事よりも経済を重視していたのである。

そしてなによりも、日本は神国であり、日本人は他のアジア人たちよりも血統的に優れているなどと勝手に思いこんでいる石河と違い、福沢にはアジア人蔑視や民族的偏見がほとんどなかった。

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